2016年5月5日 長崎新聞掲載
<989>
左半身に無数のガラス
顔の写真

秀島達也さん(85)

爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆
=西彼長与町吉無田郷=

 「きれいな空気はどこ」−。防火用水をかぶりながら火の中を突き進んだ。熱風と煙で息が苦しい。「助かりたい」。ただそれだけだった。

 当時14歳で長崎市立商業学校の3年生。三菱長崎兵器製作所茂里町工場で、潜水艦の部品になる金属をやすりで磨く仕事をしていた。

 太陽の光がまぶしくてとても暑い日だった。工場の2階でシャツの袖をまくって働いていた。突然、青い強烈な光が目に飛び込んできた。「近くの変電所が爆発したんだ」。ちりが舞い上がり真っ暗になった工場でしゃがみ込みながら思った。

 視界が開けると、2階の床ごと地上に落ちたと分かった。顔に水が滴るような感覚があった。「何やろうか」。両手でぬぐうと血が付いていた。頭から足まで左半身に無数のガラスが刺さっていた。不思議と痛みは感じない。機械や瓦などの残骸を乗り越えその場を離れようとした。「助けてくれ」。周りから5メートルほどのクレーンの下敷きになった同僚たちの声が聞こえた。だが、振り向かなかった。自分のことで精いっぱいだった。  近くの聖徳寺の防空壕(ごう)に避難した後、立神の祖父母の家まで走った。周りから火の手が迫り、防火用水をかぶりながらたどり着いた。同居していた叔母や隣の親戚に傷の手当てを受けると、左肩の肉がえぐれていた。だが赤チンキを塗ってもらうことしかできなかった。ガーゼを毎日貼り替えるたび、キリキリと痛んでつらかった。

 祖父母宅で約1カ月横になって過ごした後、熊本県の親戚の元で静養した。けがが治ると、朝起きるたび歯茎から血がにじみ、髪の毛が少しずつ抜けていった。

 1995年、仕事から帰宅するとワイシャツの左袖に血が付いていた。医者に診てもらうと、手首からガラス片が見つかり手術で取り出した。体の中にはまだガラスが残っているのかもしれない。

<私の願い>

 経験した者でなければ核兵器の恐ろしさは分からない。若い人にはそんな人々の話に耳を傾け、将来のために積極的に活動をしてほしい。数年前に前立腺を患い脳梗塞も発症し、体が少しずつ不自由になってきているが、自分たちの体験を受け継いでもらうためにできる限り協力していきたい。

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