増田慶子さん(81)
被爆当時3歳 爆心地から1.4キロの竹の久保町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

がれきで父を荼毘に

2023年01月19日 掲載
増田慶子さん(81) 被爆当時3歳 爆心地から1.4キロの竹の久保町3丁目(当時)で被爆

 当時、技術者をしていた父と母と1男5女で暮らしていた。私は末っ子で四女とは7歳差。わずかながら記憶が残っている。
 家ではニワトリを数羽飼っていた。8月9日、光とごう音がして木造の家は崩れた。額の左側を切り、傷跡が残っている。8人家族の中で父と次女が亡くなった。東彼川棚町にある墓には、父が12日に51歳で原爆死、次女が17日に19歳で原爆死と刻んでいる。
 母や姉らの話を踏まえると9日、父と旧制鎮西学院中に通う長男、山里国民学校で教職に就いていた次女は外出していた。家には母と姉3人と私。警察勤務の長女は仕事が休みで横になっており、女学生の三女はミシンに向かっていた。
 庭にいた母は飛行機の音を聞き、家に駆け込み私と台所へ。長女と三女は家の下敷きになった。母が姉たちを助け出し、家の向かいの崖に掘られていた防空壕(ごう)に避難した。父は翌日戻ってきたが、全身やけどで黒くなり、校舎にいたという長男も負傷していた。亡くなった父は長男が集めたがれきで荼毘(だび)に付した。長男は髪の毛が抜け、歯茎から出血した。
 母は山里方面で次女を捜しだし、会うことができた。ただ経緯はわからないが、後に次女は西彼時津町で埋葬されていたことが分かった。
 家はなくなり、ドラム缶を積んだトラックの荷台に乗って両親の実家がある川棚に引っ越した。母は女手一つで私たちを育て、戦争や父の仕事のことをあまり話さなかった。37年前に亡くなった。「年の離れた子で母や兄、姉に苦労をかけたのではないか」とわだかまりがあったが、母の法事の席できょうだいから「あなたは光だった」と明かされ、気が和らいだ。
 高校卒業後、佐世保で働き、夫の転勤などを経て25年前に川棚に戻った。「人生悪いときもあれば、いいときもある」。母の口癖だったが、原爆がなかったら、多くの人が違った人生になっただろう。病を患うと放射線の影響なのではと不安になる。
 5年前、読書ボランティアをしていた地元の小学校の誘いで、初めて被爆のことを話した。年齢がそうさせたのかもしれない。私の体験は長崎で起きたことのごく一部。川棚には負傷した人が大勢搬送され、慰霊碑もある。特攻艇の訓練所もあった。身近なところにも遺構があることも知ってほしい。

◎私の願い

 広島、長崎の次に原爆が使われることはあってはならない。最近の世界情勢をみると、小さな争い事が大きな戦争に拡大していくのではないかと危惧している。原子力は命を奪う兵器としてではなく、医療など命を救うために利用してほしい。

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