中島末利さん(93)
被爆当時16歳 爆心地から3.2キロの長崎市出島町で被爆

私の被爆ノート

太陽が落ちた

2022年4月28日 掲載
中島末利さん(93) 被爆当時16歳 爆心地から3.2キロの長崎市出島町で被爆

 戦時中は長崎市東部の矢上村に父母と3人で暮らしていた。当時16歳。学校には行かず、農業を手伝っていた。姉2人、兄4人の7人きょうだいの末っ子。長男と次男は戦死し、三男は大村の兵器工場の宿舎で結核にかかり亡くなっていた。
 1945年6月ごろ、本河内の文明堂に集まるよう日時だけ指定された。内容を知らないまま、タオル1枚だけ持って行くと、その日から泊まり込みの作業が始まった。橘湾に向けて軍の砲台を据えるため、日見トンネル上の山を切り開く作業だった。
 30人ぐらいで早朝から毎日12時間ほど、つるはしで地道に削った。兄と同世代の兵隊上がりが指導し、私をよくかわいがってくれた。夜は6人ほどで6畳ぐらいの板張りの寺で雑魚寝した。着替えがなかったので裸で寝た。
 原爆が落とされる前、低空飛行の飛行機を見た。米軍機がビラをばらまいたのだろう。内容は町から避難するよう促すものだった。
 8月9日の朝。兵隊上がりと2人で用事のため出島町の長崎税関(当時は海運局)に向かった。かんかん照りで、とにかく暑い日だった。途中、飛行機の音がした。
 数分後、出島近くの橋の上を歩いていた時のこと。「ピカッ、ドーン」。突然、激しい風の勢いに圧倒され、転んで腰を打った。辺りは煙で真っ暗になり、太陽が落ちたと思った。恐ろしくて、そのまま矢上の実家に帰った。道は、肌がただれた人、髪の毛がボサボサの人、服がちぎれた人など郊外に歩いて行く人でごった返していた。
 地元は100世帯ぐらいの集落で、10人ぐらいが原爆でやられた。夜に気になって、うち3人の家に顔を出すと、吐き気や咳で苦しみ、もだえていた。皆、翌日までに亡くなった。
 次の日、銭座町に住む姉を訪ねた。途中、勝山国民学校で消防団員が遺体を重ねて、まきで燃やしていた。すごい臭いだった。皆、がくぜんとしていた光景が忘れられない。姉は避難して無事だったが、家が燃えてなくなった。
 被爆した人は「結婚できない」「子どもができない」などとうわさされ、長い間被爆したことを隠した。私は28歳で結婚し、3人の子どもに恵まれた。その後、周りの人に促され、68年に被爆者健康手帳を取得。妻はその時、私が被爆者であると知った。

◎私の願い

 被爆者の高齢化で、いつか長崎の原爆が忘れ去られるかも。戦争はどんなことがあっても絶対にしたらいかん。話し合いで解決すべき。今の若者は「平和ぼけ」と言われている。自分で物事を判断し、日本の将来を考え選挙に行ってほしい。

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