増田妙子さん(92)
被爆当時14歳 玉木高等実践女学校2年、入市被爆

私の被爆ノート

「殺される」 逃げる人々

2024年2月15日 掲載
増田妙子さん(92) 被爆当時14歳 玉木高等実践女学校2年、入市被爆

 小学生まで西彼村松村(現時津町)の母の実家で、祖父母と母、兄と暮らした。卒業後は長崎市の玉木高等実践女学校被服科に進学。立山町に下宿して学校に通った。縫い物の授業が楽しかった。運動場を耕してイモを作ったり、肥料を運んだりもした。
 あのころ、いつも同じ時間に空襲に遭った記憶がある。「怖い。さみしい。お母さんに会いたい」。8月8日、思い切って村に帰る決断をした。大橋まで電車で行き、バスを待っていると空襲があり、橋の下に隠れて逃れた。家に着き、母たちの顔を見ると心が少し落ち着いた。
 翌日の空は真っ青だった。ちょうど庭に出ると、生ぬるい風が吹いた。市内の方を見ると、白い雲がよく映えて見えた。きのこ雲だったのだろうと思う。
 村は市内と比べると田舎で、バスがほとんど通らない静かな場所。しかしその日はいつもと違った。市内から、けがをした人たちが「殺される」と話しながら逃げてきていた。その中には親戚のお兄さんもいて、ズボンに血を付けていた。学徒動員で兵器工場で働いており、亡くなった人たちの中を懸命に逃げてきたのだと思った。
 ご近所さんたちの中には牛に米を背負わせたり、畳を担いだりして山に逃げた人もいた。祖父が「なんで山に行って死なんばか」と言ったので、ずっと家にいた。
 少し日を置いて、下宿先の主人が「家の瓦が飛んで、荷物がぬれるから一度家に帰ってきてほしい」とわざわざ村まで来てくれた。その時に市内に入った。原爆投下から2週間以内のことだった。
 市内の様子はあまりよく覚えていない。下宿先から銀屋町の親戚宅に荷物を移し、その後は親戚宅から学校に通った。外国人兵士が突然、土足で家に上がってきたこともあり、私は2階の部屋に逃げた。兵士たちが何かすることはなかったが、怖くてたまらなかった。
 兄はサイゴン(現ホーチミン)に出征していたが、戦地から引き揚げてきたとの連絡が学校にあり、先生から「すぐに帰りなさい」と言われた。急いで村に戻ると、兄は疲れた顔をして寝ていた。その後、久々に再会した。
 同じころ、学校で8月9日前後の日々について記録していたようだ。後に、これが入市被爆した証明となり、被爆者健康手帳の取得につながった。

◎私の願い

 23歳で夫と結婚して以降、原爆で両親を亡くした夫とそのきょうだいと住み、親代わりで家を切り盛りした。家族と過ごす時間が一番大事。戦争はその時間を奪ってしまう。今、外国では戦争が続いているが、一日も早く終わってほしい。

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