溝浦勝さん(83)
被爆当時4歳、爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

一晩中真っ赤な対岸

2024年4月18日 掲載
溝浦勝さん(83) 被爆当時4歳、爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町3丁目(当時)で被爆

 戦時中、長崎市飽の浦町の自宅に両親、2人の兄、弟の6人で暮らしていた。米軍機が近くの三菱長崎造船所を目がけて低空飛行し、飛行士の顔が見えるほどだった。空襲が怖くて、押し入れの中に隠れていた。弟は原爆投下の10日ほど前、栄養失調で死んだ。そんな時代だった。
 あの日、父と当時12歳の長兄は早朝から食料の買い出しに諫早へ行っていた。もう1人の弟を身ごもっていた母と次兄、私は、竹の久保の伯母の家に行く予定だったが、朝から空襲警報が出たので自宅にいた。警報が解除された後、次兄や近所の友達と自宅の玄関近くで手作りのシーソーで遊んでいた。
 すると突如、今まで見たことのないすさまじい光に驚き、家に逃げ込んだ。玄関あたりから爆風で飛ばされ、気づいた時は母の腕の中にいた。後から聞いたことか、記憶なのか、あいまいだが、家の周りの塀はなぎ倒され、ガラスは散り散りになっていた。家族3人とも大きなけがはしていなかった。
 父と長兄は慌てて諫早から長崎を目指したが、列車は途中までしか通わず、長与から自宅まで歩いた。爆心地に近づくにつれて街全体がやられたのではと思ったという。「助けてくれ」「水をくれ」という人々の声を聞き捨て、食料の入ったリュックサックも放って、一目散に自宅へ向かったそうだ。その夜は近くの防空壕(ごう)で家族や近所の人と過ごした。そこから見える対岸の長崎の街が一晩中、真っ赤に燃えていた光景を今でも思い出す。
 翌日、父と長兄は爆心地近くで捨てたリュックサックを探しに行き、見つけた。当時、缶詰の貯蔵庫がその近くにあり、黒焦げになった缶詰も一緒に拾ってきた。缶詰に入っていた豆の味は忘れられない。あの時、放射線の影響は考えてもいなかった。
 11日、母と次兄と伯母の家へ向かった。そこら中の家が倒れていた。よく一緒に遊んでいた3人のいとこのうち、2人は家の下敷きになり、もう1人は防火用水に頭を突っ込んで死んでいた。あの日、伯母の家に行っていたら今、被爆体験を話すこともできなかった。
 母は胃など二つのがんを患い59歳で他界した。次兄も3度がんを患い、最後は2016年に白血病で逝った。翌年には長兄も胆のうがんで亡くなった。1発の原子爆弾が身近な人や大勢の人を今なお苦しめている。

◎私の願い

 戦争さえなければ、広島、長崎に原爆を投下されることはなかった。被爆者はあと何年生きられるか分からない。政府には少しでも早く、核兵器禁止条約を批准するように求める。被爆80年が大きな転換期になるように平和運動を進めたい。

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