甲斐田禮子(87)
被爆当時10歳 稲佐国民学校4年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

げた脱げても走った

2023年02月02日 掲載
甲斐田禮子(87) 被爆当時10歳 稲佐国民学校4年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目(当時)で被爆

 淵神社がある山の南側、谷間の辺りにおばの家があった。あの日、父に連れられ、妹とおばの家に来ていた。警戒警報も解除され、いとこと一緒にトンボを捕まえて遊ぶためにクモの巣を探していた。家と家の間にクモの巣を見つけ、狭い空間に入っていった時だった。
 飛行機の音が聞こえた。間もなく、ピカーッと光った。とっさに妹といとこを両腕で抱えて伏せた。
 父とおばは私たちを探していた。いとこはおばの元へ走り、ギャーギャー泣いていた。しばらくして目を開けるとあまりに光が強いためか、真っ暗で何も見えなかった。「目ばやられた」と思ったが、だんだん見えるようになった。おばといとこも何も見えなかったらしく、川に約3メートルの高さから落ち、いとこは頭から血を流していた。私たちは防空壕(ごう)に向かった。げたが脱げても構わず走った。
 しばらくして淵神社の山が真っ白になるくらい大量のビラがまかれた。父が拾ったところ表は10円札で、裏には「15日にも同じ爆弾を落とすから疎開しろ。天皇陛下に早く戦争をやめるように言え」などと書いてあったようだ。1時間もすると憲兵たちがビラを回収していった。
 ビラを読んだ私と両親、妹、祖母の5人はおばたちと涙ながらに別れを告げ、13日から長与へ向かった。浦上川を北上する中で出会った兵隊さんは妹に白い米あめをくれた。鎮西学院中(現在の活水高の位置)の前を通ると、体が燃えた5、6人の遺体がきれいに並んでいた。初めて死んだ人を見たのでびっくりして、なるべく下だけを見て歩くようにした。
 大橋を渡り、現在の文教町方面へ向かっているとパンパンに膨れ上がった馬がひっくり返って死んでいた。上を向いた馬の脚に引っかかりそうになった。浦上水源地を経て翌日には長与に到着。そこで終戦を迎えた。その次の日、大草と長与を結ぶ道をジープ車が走っていた。みんな驚いて身を隠した。
 自宅は稲佐国民学校の運動場の上にあった。運動場が火よけ地になって難を逃れたが、そこより下の家は燃えてしまった。竹岩橋で被爆したいとこは髪が全て抜け、鼻や歯茎の出血は止まらなかった。「きょう死ぬか、明日死ぬか」という状況だったが、何とか生きることができた。必死の看病が効いたのだと思っている。

◎私の願い

 原爆は特別な爆弾で、後遺症が残ってしまう。私の友人も後遺症があり、喉に金具をはめるなどして大変な目に遭っていた。今、ロシアが核兵器を使うかもしれないというが、絶対に使ってはいけない。もう戦争も絶対に駄目だ。

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