杉尾祐橘さん(85)
爆心地から2.8キロの長崎市片淵2丁目で被爆

私の被爆ノート

雲の中に「火の玉」

2023年03月16日 掲載
杉尾祐橘さん(85) 爆心地から2.8キロの長崎市片淵2丁目で被爆

 物心ついた頃、日本は戦争をしていた。父は三菱造船所に勤務。休日もなく、早朝に出かけ深夜に帰宅する日々を送っていたため、一緒に住んでいながら、顔を合わせることも話をすることもほとんどなかった。
 母によると、1945年7月末、灯火管制が敷かれ暗い食卓で、父が「空襲になっても現場から離れられんごとなった。もうすぐ死ぬやろう」と話したという。数日後、父は空襲による爆弾の直撃を受け帰らぬ人となった。8月3日、自宅に遺骨が戻ったが、悲しいという感情は湧かず、どこか人ごとのように感じた記憶がある。遺骨は、自宅の地下にあった防空壕(ごう)の一番奥に安置した。
 父亡き後は祖母と母、姉の4人暮らし。9日午前、自宅でくつろいでいると突然、爆音が聞こえた。窓際に寝転んでいた飼い猫も、飛び上がって外へ逃げ出したほどだ。すぐに防空壕の遺骨のそばまで走り、しゃがみ込んだ。続いて姉も飛び込んできた。何かが崩れ落ちるような大きな音がして、息ができないほどの土煙や砂煙が舞い込んできた。目を閉じ、耳を押さえてじっとした。
 しばらくして部屋に戻ると、母と祖母が土間の隅でぼうぜんと座り込んでいた。「お母さん」と大きな声で呼ぶと、母はわれに返り「また爆弾が落ちてくるかもしれん。逃げよう」と言った。あまりに大きな音と衝撃だったため、自宅に爆弾が落ちたと思ったが、そうではなかった。外に出ると周りの家はどこも同じようにガラス戸やふすまが壊れ、道路には大量の屋根瓦やがれきが散らばっていた。
 昼間にもかかわらず、辺りは夕方のように薄暗かった。城の古址(こし)と呼ばれる丘の防空壕にたどり着いた時、男の人が空を指さし「火の玉の落ちてきよる」と叫んでいた。見上げると確かに、黒い雲の中に大きくて真っ赤な火の玉が見え、今にも落ちてきそうだった。
 のちにそれは、原子雲の下から見えた太陽だったのだと分かったが、あの時の「火の玉」の光景は今でも忘れられない。その夜、長崎のまちは一面火の海で、闇の中に浮かび上がる炎が、丘の上にいる自分たちの方にはい上がってきそうで恐ろしかった。後日、戦争が終わったと聞かされた時「もう爆弾は落ちてこない。逃げ回らなくていいんだ」と心底ほっとした。

◎私の願い

 あの戦争さえなかったら放射能の影響で苦しむ人は出なかったはず。戦争は人の心も、判断力も狂わす。核兵器使用の先には人類の滅亡しかない。悲惨な結果をもたらした原爆投下の事実を忘れてはならない。

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