大久保友介さん(91)
爆心地から2.5キロの西山町2丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

大橋町の工員全滅

2022年4月21日 掲載
大久保友介さん(91) 爆心地から2.5キロの西山町2丁目(当時)で被爆

 通っていた海星中学校は長崎市鍛冶屋町(現在の油屋町)の自宅から近く、「御真影係」を任されていた。空襲があれば学校に駆け付け、教育勅語を校長から預かって防空壕(ごう)に走るのが仕事。ゲートルを巻く暇も惜しみ、手に持って学校までの近道を5分で走ったものだ。2年になると、学徒動員で西彼香焼村(現長崎市)の川南造船所に通い、船殻工場で船の甲板を作る力仕事を担当していた。
 あの日は仕事には行かず、引っ越した西山町2丁目にある梅屋敷の自宅で畑の草をむしり、裸で寝転んで休憩していた。空襲警報は鳴ったが、いつも西山まで戦闘機は飛んでこないので避難もせずにいると「バーン」と音がして、英彦山の方向にひも付きの白い物がゆっくり落ちるのを見た。原爆の威力を測る装置だと後で聞いた。
 父と姉は仕事で不在だったが、家族10人は全員無事。隣の家の女性が男手を頼って助けを求めてきたので行ってみると、女性の親戚の男性が上半身裸で寝ていた。担ごうにも、体中に窓ガラスの破片が刺さっていて、こちらもけがをしてしまう。1人で30分ほどかけてガラスを抜いてやったが、本人が大いびきをかいて寝続けていたことは、今でも不思議に思う。防空壕に運ぶと、手当てを受けていた。夕方、姉が勤務先から電話をかけてきて「黒い雨の降りよるけん当たらんごと」と言った。実際に西山には黒い雨が降った。
 父は当時鉄工所や印刷所、せっけん会社などを経営しており、各支配人が次々と西山の家に被害の報告に訪れた。しかし、大橋町にあったせっけん工場の支配人だけが現れない。工員は全滅だった。
 8月12日ごろ、それぞれの会社の被害状況を父と見て回った。宝町の鉄工所では下半身が鉄板の下敷きになった女性が息絶えていて、見るも哀れ。大橋の工場は焼け焦げ、背の高い金庫以外は何も残っていなかった。浦上川にひしめいていた死体の多くは工場の制服を着た女性ばかり。川に入り、橋の上から指示する父の声を頼りに捜索。支配人を見つけだし、引き上げて荼毘(だび)に付した。
 原爆投下から約10日後、従業員の生活が少しでも楽になればと、金庫をハンマーで壊してこじ開けた途端、「ボンッ」と音を立てて爆発。通帳も札束も触れば崩れる炭になった。戦争は苦労や損しかなかった。

◎私の願い

 今のロシアがしているのは「欲の戦争」。戦争なんてするもんじゃない。戦争しないためには真面目に働くこと。また、何でもいいから勉強をすること。戦争の勉強だっていい。どうしたら戦争を止められるかが分かるはず。

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