西本信夫さん(92)
被爆当時15歳 長崎市立商業学校4年 爆心地から2.5キロの長崎市西山町1丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

街は地獄の原野に

2022年5月26日 掲載
西本信夫さん(92) 被爆当時15歳 長崎市立商業学校4年 爆心地から2.5キロの長崎市西山町1丁目(当時)で被爆

 あの瞬間までぐっすり眠っていた。なぜ目覚めたかは分からない。家の中はめちゃくちゃな状態で、隣近所に爆弾が落ちたと思い外を見た。ものすごい音とともに、もうもうと土煙が上がっていた。原爆とは知る由もなかった。
 当時、西郷(現油木町)にあった長崎市立商業学校の4年。同校に一部疎開していた三菱長崎兵器製作所の工場に動員されていた。夜勤明けで帰ろうとすると、工場長に「続けて昼勤を」と命令されたが、眠かったので断った。家路を急いでいる途中、同じ学校に通う弟と擦れ違った。登校中で「気を付けて」と声をかけた。
 午前9時ごろ金比羅山の麓の自宅に着き、ご飯を食べ夜勤に備えて床に就いた。起きた時は何が何だか分からない。ふすまや障子などがなくなっており、すぐそばに本棚が倒れていた。運良く無傷で、家も大きな被害はなかった。台所にいて軽いけがをした母と裏山の防空壕(ごう)へ逃げた。
 浦上方面から山を越え、どんどん人が逃げて来た。「浦上の方は全滅」「新型爆弾が落ちた」と口々に話し、後から逃げて来る人ほどけががひどかった。どうにかしてあげたかったが、自分のことで精いっぱい。何もできなかった。夕方までに父と姉、兄が無事帰宅したが、弟は帰って来ない。浦上方面は火の海で、捜しに行ける状況ではなかった。
 夜明けを待ち、山を越えて学校へと向かった。街は地獄の原野と化していた。焼けただれたがれきが広がり、黒焦げの死体が無数にころがっていた。息絶え絶え水を求め、また肉親を捜しさまよう人々。なんともむごい光景だった。
 校舎も工場も焼けてしまっていた。工場跡へ行くと、自分が担当していた機械のそばに一塊の骨が落ちていた。昼勤命令に従っていたらと思うと、背筋が凍った。
 隅々まで捜したが弟を見つけることができず家に戻っていたところ、警防団の人が「助けを待っている」と知らせに来た。再び学校に行くと、弟は戸板の上にうつぶせで寝かされていた。背中一面に大やけどを負っていたが、受け答えできるなど冷静そのもの。私が捜している姿を見て「おーい」と呼んだと言ったが、全然気付かず、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 自宅に連れ帰ってから2日後の12日、家族みんなに見守られ、弟は苦しむこともなく息を引き取った。

◎私の願い

 昨年1月から原爆被爆者特別養護ホームかめだけで生活。幸い大きな病気もせず健康だが、原爆症への不安はつきまとう。平和になった日本。この平和を次代へつなげていかなければと常に思う。二度と戦争をしてはいけない。絶対に駄目。

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