石原照枝さん(87)
被爆当時9歳、入市被爆

私の被爆ノート

生き残った姉と父も病死

2023年12月02日 掲載
石原照枝さん(87) 被爆当時9歳、入市被爆

 父は戦後、長崎市出島町に建設会社の事務所を設け、生き残った私たち家族も事務所に住んでいた。経済的に困窮して高校に通うお金もなかったが、奨学金を受けられる熊本の私立高校が見つかり、商業科に進学した。
 在学中、熊本市内を流れる白川で大水害が発生。人々が濁流にのみ込まれ、阿蘇方面から下流に流されていくのを目撃したが、助けることはできなかった。破壊された熊本の街並みが、原爆で壊滅した長崎と重なった。
 原爆投下の10日後に訪れた長崎市内の川には、水を求めて息絶えた人々の遺体があふれ、焼けた牛や馬、犬の死骸が転がっていた。忘れることができない光景。熊本の水害で「本当にどうしようもない」という無力感と共に、その記憶がよみがえった。
 高校卒業後、大学進学を諦めて生命保険会社に就職。20代後半で学校教諭の男性と結婚したが、体の不調が続いたため子どもは望めず、本当にショックだった。その後も胃がんが見つかって摘出手術を受けたり、脳梗塞を4回経験したりと病気が相次いだ。
 さらに、原爆投下の翌日から父や母を捜して爆心地付近を歩き回った姉は、1968年に骨髄性白血病で死去。その5年後には父も食道がんで亡くなった。戦後も長く続く私の病気も、家族の死も、原爆の放射線による影響が原因だと思っている。
 私が被爆者健康手帳を取得したのは78年。被爆して30年以上たっていたが、長崎の学校でも被爆者がいじめられるのを見ていたので、自分が被爆者だと知られたくなくて手帳は取っていなかった。しかし会社の先輩女性が被爆者で「手帳は取っておいた方がいい」とアドバイスをくれたので、勇気を出して申請した。
 その頃から小学校などで、被爆体験の語り部活動も始めた。私が記憶している範囲でも、原爆の恐ろしさを子どもたちに知らせる義務があると思ったから。今では熊本の被爆2世や高校生とも一緒に活動している。
 被爆者団体「熊本県原爆被害者団体協議会」の運動にも携わり、被爆50周年の95年には熊本市内に「原爆犠牲者の碑」を建立。亡くなった家族を思いながら、仲間と一緒に寄付金を集めて回り、完成した時には涙が出た。犠牲者を追悼し、核兵器廃絶と恒久平和の実現を願うモニュメント。長崎の方角を向いている。

◎私の願い

 戦争では大量の殺し合いが起こる。ロシアのウクライナ侵攻が続いているが、日本政府もはっきりと戦争を止めるように言うべきだ。私は平和を守るため、限られた命がなくなるまで原爆を伝える活動を続けたい。

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