久松榮さん(93)
被爆当時14歳、玉木高等実践女学校3年 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆

私の被爆ノート

柿の葉煎じ「毒出し」

2024年3月1日 掲載
久松榮さん(93) 被爆当時14歳、玉木高等実践女学校3年 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆

 女学校の3年生になると学徒報国隊として動員され、長崎市の三菱兵器製作所茂里町工場で午前8時から午後5時まで働いた。自宅は西立神町にあり船で通勤できたが、近くの三菱重工業長崎造船所で働いていた父のおかげで特別に許可をもらえたので、構内を通って30~40分かけて茂里町工場まで歩いていた。
 工場では学友と3人1組で全長約1・5メートルの魚雷にやすりをかける仕事をした。8月1日、警戒警報が出て友人と2人で帰宅中、防空壕(ごう)に駆け込む暇なく、軒下で機銃掃射に遭った。戦争で一番怖い思いをしたのがこの時。足がすくんで動けず恐怖で泣いた。
 原爆が落ちた瞬間は工場の1階にいたため気が付かなかった。部屋が傾いてくるのが見えた瞬間、男性の工員がとっさに近くにいた私の手を引いてくれて脱出。無傷だった。ふうふう言いながら必死に走り、稲佐橋を渡って逃げた。工員と別れ、救急隊として集まるよう言われていた稲佐署に行き、稲佐国民学校へ手伝いに向かった。けが人の足の裏に刺さった大きなガラスを抜くと血が流れて恐ろしく、ヨードチンキを塗り布を結ぶのがやっと。大人からいろいろ指示されても当たり前にできなかった。
 水の浦の赤れんが壁も倒れていた。毎日あいさつを交わしていた造船所の守衛さんは「あー良かった。あの子どうしたろうかって心配した」と無事を喜んでくれた。爆心地方面から帰るのは、午後6時過ぎでも早い方と聞いた。家族7人はけがもなかった。しばらくして母は「毒出し」と言って庭の柿の葉を煎じて家族全員に飲ませ続けた。今ならとても飲めないけれど、これまで健康診断で異常がないのは、そのおかげだと思う。
 ただ、父は原爆で行方不明になった上司の妻を大橋町まで捜しに行って具合が悪くなり、1949年に胃がんで他界。父は戦艦「武蔵」の設計技師だったので、戦争というと父たちが何年もかかって作り上げた戦艦が1回の攻撃でやられてしまったことが悲しくて一番印象に残っている。
 卒業後も「原爆仲間」と呼び合う学友10人で旅行などをしたが、今では2人。夫の家は両親やきょうだいを原爆で亡くしていた。家の中で被爆した義姉は目に見えるけがなどなかったのに、1カ月後に急死。死後、遺体の口からたくさんうじ虫が出てきたそうだ。似た話は他の人からも聞いた。

◎私の願い

 若い人たちに言いたいのは、先祖さまを大事にしてもらいたいということ。私は原爆の影響で亡くなった先祖には大きなグラスで「お水飲んでね」と毎日声をかけるようにしている。今、自分がここにいられるのは先祖のおかげなのだから。

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