山田正和さん(90)
被爆当時11歳 西坂国民学校6年、爆心地から2.3キロの長崎市大黒町で被爆

私の被爆ノート

幽霊のような母子

2023年11月16日 掲載
山田正和さん(90) 被爆当時11歳 西坂国民学校6年、爆心地から2.3キロの長崎市大黒町で被爆

 当時、西坂国民学校6年で11歳。原爆がなければ御船蔵町にあったあの校舎で卒業するはずだった。
 西彼矢上村(現長崎市矢上町付近)で生まれ、3歳まで過ごした後、長崎市目覚町に移り住んだ。父が自宅で八百屋を営んでおり、売り上げが伸びなかったのか、小学3年生の時に大黒町に引っ越し、私は西坂国民学校に転入した。もし(爆心地により近い)目覚町に住んでいたら、私はここにいなかったかもしれない。
 あの日、母と次姉、弟は諫早方面に疎開していた。長姉は長与駅の国鉄管理部で仕事をし、父は店にいたと思う。
 朝から空襲警報が鳴り、私は父に育てられた軍用犬と共に、自宅から歩いて15分ほどだった西上町(現筑後町)の中国人墓地付近の掘っ立て小屋に逃げ込んだ。防空壕(ごう)に入れない犬と避難するため、父が廃材で建てた2畳分ほどの小屋だった。
 中で休憩していると飛行機の音が聞こえた。外の様子をのぞこうと思っていると、突然「ドーン」というすさまじい音がした。何が起きたのか分からなかった。小屋は無事だったが、近くの墓石は倒れていた。しばらくして犬と一緒に大黒町に戻ると、自宅も含めて付近の建物は焼失。だんだん空が曇って暗くなり、肉眼で太陽を見ることができて不思議だった。
 ここから先の記憶は断片的でよく覚えていない。人は恐怖に襲われると記憶が飛ぶのだと思う。どういうわけか、焼け焦げた自宅の前で父、長姉と合流できた。その夜は立山の防空壕に避難。浦上方面から女性とその子どもが逃げ込んで来たが、髪を振り乱し、顔は膨れ上がり、まるで幽霊のようだった。
 数日後、焼失した自宅から家財道具を探し出し、リヤカーに載せて父、長姉と矢上の親戚の家まで歩いた。途中、矢上の役場の前で婦人会の人から、おにぎりを二つもらった。とてもおいしかった。あの味だけは忘れられない。
 西坂国民学校は全焼した。終戦後は西勝寺(上町)で授業を受け、卒業式もあった。6年は数クラスあったが、卒業時は1クラスに減った。疎開したり、原爆で亡くなったりしたからだと聞いた。
 私は運が良かった。家族も全員無事で、犬はその後、警察犬になった。皆に生かされた命。感謝して生きていきたい。

◎私の願い

 遠く離れた地で戦争が起き、ドローンを使って攻撃するなど戦い方も変化している。それはそうと、戦争をやること自体、間違っている。人の命を奪うことはあってはならない。

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