中島眞行さん(85)
爆心地から4.8キロの長与村吉無田郷(当時)で被爆

私の被爆ノート

天地が割れるよう

2022年10月14日 掲載
中島眞行さん(85) 爆心地から4.8キロの長与村吉無田郷(当時)で被爆

 長崎市諏訪町で生まれ育ち、1944年春、近くの磨屋国民学校に入学した。ところが軍から「道路幅を拡張するから立ち退くように」と命令され、45年の春ごろ、一家で長与村(現在の西彼長与町)に移り住んだ。長与駅に近い場所で長与国民学校に転校した。
 8月9日、長与村には警戒警報が出ていたようだが、慣れもあったんだと思う。弟と2人で自宅近くの木に登ってセミ捕りをしていた。午前11時2分、長崎市の方で大爆発が起きた。爆風で木から振り落とされた。地面に伏せ、手で耳をふさいだ。天地が割れるような感覚だった。
 自宅に戻る途中、近所の同級生の女の子を見かけた。爆風で割れたガラスでけがをしていた。午後3時くらいになると、多くの人が長崎方面から長与に戻ってきていた。けがをしている人もいたが、無傷の人もいた。ただ、10日くらいたって無傷の人が何人も亡くなったと聞いた。当時は放射能のことは分からず、「毒ガスを吸っていたのではないか」と、うわさになった。
 医師だった父は長崎市の諏訪神社近くの診療所で働いていたが、原爆投下の時間には中島川付近にいたらしい。夜8時ごろ、ようやく帰ってきた。ぼろぼろの状態で幽霊のようだった。母が「よく帰ってきたね」と泣きながら抱き付いていた。いつも気丈だった母の涙は印象的だった。10日には父と長崎市の爆心地近くまで行き、知り合いを捜したが、見つからなかった。町がめちゃくちゃになっていた。浦上川で多くの人が亡くなっているのを見た。
 45年12月、五島富江町で開業医をしていた母の兄を頼って一家で福江島に渡った。玉之浦町と三井楽町に合わせて5年半住んだ。長崎市は食料不足だったことが移住の理由だった。
 父は五島でも医師として働き、米軍人の診察もしていた。軍艦にサメのイラストが描かれ、兵隊は明るく友好的だった。かつては敵だったが、「アメリカは豊かな国なんだろうな」と想像した。父に習った片言の英語で身ぶり手ぶりを交えながらコミュニケーションを取ったことを覚えている。
 99年にできた「長崎-セントポール姉妹都市委員会」の設立に関わり、今も理事を務めている。日米の市民レベルの友好に尽力したいという思いは、幼い頃の経験があるからだ。

◎私の願い

 ロシアのウクライナ侵攻に胸を痛めている。特に子どもが亡くなったというニュースを目にすると、人ごととは思えない。ロシアにも言い分はあるかもしれないが、やはり戦争はだめだ。世界が平和であることを強く願う。

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