横瀬昭幸さん(83)
被爆当時6歳 古賀国民学校1年 爆心地から9.7キロの北高古賀村(当時)で原爆に遭う

私の被爆ノート

焼けただれた肌に薬

2022年6月9日 掲載
横瀬昭幸さん(83) 被爆当時6歳 古賀国民学校1年 爆心地から9.7キロの北高古賀村(当時)で原爆に遭う

 太平洋戦争中、大村市の海軍共済病院の軍医だった父は、1944年に台湾の病院へ派遣された。残されたのは母と姉、私、妹の4人。戦況の悪化で空襲が相次ぎ、大村の官舎も爆撃を受けた。避難を繰り返し、45年夏は旧北高古賀村(現長崎市)の診療所に身を寄せていた。
 8月9日は朝から空襲警報が鳴ったため、学校ではなく防空壕(ごう)で勉強していた。一段落して、同級生4人で柿の木に登って遊んでいると、ピカピカ光る米軍爆撃機B29を発見。持っていた竹棒を銃に見立て、「バンバン」と叫びながら機体を撃つまねをした。
 その瞬間、目の前に青白い光が広がり、衝撃で木から振り落とされた。音は覚えていない。気が付くと友人と折り重なるように倒れていたが、芋畑の軟らかい土が衝撃を吸収してけがはなかった。
 しばらくして焼けた10円札の破片が降ってきた。一番大きな破片をつかむ遊びに没頭していると、駆け付けた父の部下が「早く家に帰って体を洗いなさい」と言った。今思えば原爆で巻き上げられた紙片で、彼は放射能汚染の恐れに気付いていたのだろう。
 夕方になると浦上方面からけが人が続々と逃れてきて、通りに近い民家が臨時の救護所になった。母は軍医の妻として治療に当たり、私や友人も手伝った。道端に倒れた人を起こそうと腕を引っ張ると皮膚がべろりとむけ、目が飛び出している人もいた。
 子どもは、患者の焼けただれた皮膚に「チンク油」という薬を塗るよう命じられた。はけで塗っていたが患者が声にならない声で痛がるので、素手で直接塗ると少し表情が和らいだ。増え続ける患者。にぎり飯を配ったり、自分も食べたりして、真っ暗になるまで治療が続いた。明くる日には、患者の傷口にうじ虫が湧いていた。
 その後も救護所を手伝い、迎えた15日。国民に敗戦を告げる天皇のラジオ放送を、大人が正座して聞いていた。「何で泣きよらすとやろ」。不思議だった。
 父は47年に帰国。厳しく育てられた私は心臓血管外科医となり開業した。84年に長崎平和推進協会の理事に就き、2003年から理事長を18年間務めた。現在は顧問。
 自宅近くの爆心地公園まで毎朝歩き、黙とうするのが日課。これまでに出会った多くの被爆者を思い、心の中で「きょうも頑張ります」と語りかけている。

◎私の願い

 ロシアが核の力を背景にウクライナに軍事侵攻していることが許せない。悔しくて、腹が立って、夢にまで見る。核兵器は存在する限り使われる。人類を滅亡させないためにも、世界中の若い人たちが手を取り合って核兵器を廃絶してほしい。

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