丸田和男さん(90)
被爆当時13歳 旧制瓊浦中1年 爆心地から1.3キロの長崎市銭座町で被爆

私の被爆ノート

母の死 悲しみ湧かず

2022年12月23日 掲載
丸田和男さん(90) 被爆当時13歳 旧制瓊浦中1年 爆心地から1.3キロの長崎市銭座町で被爆

 意識を失い、気が付くと背中に痛みを感じ、辺りは血で赤く染まっていた。後頭部と上半身裸の背中に、飛んできたガラス片が刺さっていたためだった。近くで女性や子どもの悲鳴、逃げていく足音、話し声が聞こえたが、がれきの下敷きになり身動きがとれない。「助けてくれ」と声を出したが、皆逃げるのに精いっぱいで誰も助けてくれなかった。「火事が起きた」と声が聞こえ、必死にもがいてがれきから脱出した。
 血だらけ泥だらけの体で、自宅裏の段々畑を登った。当時、遊び場にしていた砲台跡の広場にたどり着くと、火の手から逃れてきた人々でいっぱいだった。無傷の人はおらず、自分と同じように肌にガラス片が突き刺さった人、やけどを負った人、すでに虫の息の人、励ます声や泣き叫ぶ声が聞こえ、この世の地獄だと感じた。
 力尽き、その場で倒れ込んだ。「丸田さんのお母さん、だめだった」。近所の男性が話す声が聞こえ、母の死を知った。隣の家の玄関で立ち話中に原爆に遭い、即死だったという。母の生死を確かめる気力も体力もなく、悲しいという感情すら湧かなかった。
 避難して来た人が、上半身裸で倒れている自分に学生服を着せてくれた。旧長崎市の北半分は壊滅状態で、救護や食料の補給はなく、その間にも重傷者が息を引き取った。起き上がれない体に黒い雨が降った。
 夜になり、母方の叔父が自分と母を捜してやって来た。叔父は、勤め先の飽の浦町方面の三菱重工業長崎造船所におり、無事だった。「お母さん、どうした?」と聞かれ、「お母さん死んだ」と力なく答えるしかなかった。叔父と砲台跡近くの防空壕(ごう)で一晩過ごした。夜中に下痢になり、朝になって血便だと分かった。
 やっと救護が来て、背中の傷に薬を塗ってもらった。防空壕の前で座り込んでいると、同級生2人と再会した。叔父は母の遺体を見つけ、火葬して遺骨を新聞紙と風呂敷で包み、自分の元に持ってきてくれた。それを見ても悲しいと感じなかった。食欲も気力もなくなり、その日は聖徳寺(銭座町)の下の防空壕に泊まった。道ノ尾駅から列車が出ていると聞き、叔父が市外に避難しようと提案した。

=1153に続く=

ページ上部へ