大良綾子さん(89)
被爆当時12歳 稲佐国民学校6年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

地面に胸まで埋まる

2022年10月27日 掲載
大良綾子さん(89) 被爆当時12歳 稲佐国民学校6年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目(当時)で被爆

 ショックが大きく、今まで詳しい被爆体験は話してこなかった。ただ子どもたちが平和について学ぶ姿を見て、「長生きしたのだから子どもたちのために話そう」と思い、口を開くことにした。
 当時12歳。稲佐国民学校6年の頃、稲佐町3丁目(当時)の自宅で被爆した。9人きょうだいの末っ子。両親と3歳上の姉と暮らしていた。
 あの日、諫早の親戚に疎開の約束を取り付けて帰宅。重箱を開け、母と姉と早めの昼ご飯を食べようとした瞬間、ピカッと光った。しばらくして目を開けると、目の前は泥や煙で真っ黒。子どもが母親を呼ぶ声が聞こえる。気付くと、爆風で飛ばされ、近所の家の玄関先の地面に胸まで埋まっていた。急いではい出ると、稲佐山の中腹にあった別荘を目指した。逃げる途中、「綾ちゃん助けて」と隣組の子の声が聞こえた。それが今も耳に残る。
 数百人が稲佐山へと避難していた。みんな人間の形をしていなかった。皮がはげて灰をかぶっている人がたくさんいた。誰か分からないほど体全体が腫れている人がいたが、もんぺで町内のおばさんと分かった。まるで生き地獄のような光景だった。
 忘れもしないが、川の近くで朝鮮の人が「アイゴ、アイゴ」と言って泣いていた。川の水を飲み死んだ人の上に別の人が乗って水を飲み、またその人が死ぬ。それが繰り返されていた。思い出すのもつらく、涙が出る。
 稲佐山で母と姉と再会し、三菱に勤めていた父も合流。2~3日は家族4人で別荘で暮らした。当時、米爆撃機B29が機内の乗組員が見えるくらい低空飛行をしていて「女子どもは殺される」といううわさがあり、家族4人で歩いて諫早へ疎開。大勢の人たちがうつむいて黙々と、昼夜問わず歩いていた。島原に向かう人もいたので、諫早はまだ距離的には近い方だった。今、ウクライナの避難民の映像を見ると、当時と重なり、あの時の記憶がよみがえる。
 疎開後、諫早に住み、諫早高に進んだ。男女で仲良く語らい、テニスに興じ、放課後、みんなで饅頭を食べた。こんなに楽しく暮らせるのかとしみじみ思った。
 数年前、特攻隊として亡くなった2番目の兄の遺言書が出てきた。「国や家族のために」という若者の覚悟は立派だが、日本は戦争に負けて、やっと自由になれたんだと思う。

◎私の願い

 みんなが助け合う環境をつくって、戦争も痛ましい事件もなくなってほしい。他人に対し身内だと思って接すれば優しくなれる。どんな事情があっても戦争は人殺し。ロシアの事情は知らないが、一日も早く戦争をやめてほしい。

ページ上部へ