中島洋さん(91)
被爆当時12歳、入市被爆

私の被爆ノート

「長崎で事件」家へ急ぐ 

2023年12月07日 掲載
中島洋さん(91) 被爆当時12歳、入市被爆

 島原で生まれ、1945年春、父の勧めで旧制鎮西学院中(現・長崎市宝栄町、爆心地から約0・5キロ)に入学した。母のいとこの家族宅に下宿。ガスタンクや公園が近くにあり、西浦上地区だったかと思うが、住所は覚えていない。
 原爆投下前日の8月8日は熱が出て学校を休んだ。9日は下宿先のおばさんから「今日まで休まんね」と言われたが登校。当時は軍の手伝いであちこちに行っていて、その日は茂木方面の山で穴を掘っていた。突然ピカっと光り、バーンという音が響いた。山の上からきのこ雲が見えた。
 軍の人から「長崎で事件が起きた。これで解散」と言われ、友人と一緒に下宿先へ向かった。通りかかった諏訪神社裏のあぜ道には、着の身着のままで逃げてきた人たちがいて、「助けてください」と手を握ってきた。1人、2人ではなかったし、家も心配で、振り切るように進んだ。
 視界が開けた時、牛か馬か4、5頭が倒れ、辺りは崩れて何もなかった。見えたのは浦上天主堂だったと思う。下宿先の家はほうきで掃いたようだった。おばさんは配給を取りに行った帰りに飛ばされ、水を欲しがるので公園に運び井戸の水をあげた。木に引っかかっていた布団を敷き寝かせると、安らいだように見えた。公園にはやけどをした人など大勢いて、水を求めていた。下宿先の次女は遊んでいて飛ばされ、亡くなったのではないかと聞いた。
 当時、長崎電気軌道の終点だった大橋で、複数の車両が夜通し燃えているのが公園から見えた。おばさんは夜明けとともに息を引き取り、家の近くで被爆した下宿先の長男、次男と一緒にみとった。
 翌日は長男、次男と道ノ尾駅へ。喉が渇き田んぼの水を飲みながら歩いた。コメを持ってきたが2人の手を引いていて持ちきれず、もったいなかったが途中で捨てた。飛行機が何度も低空を飛行し、そのたびに隠れた。怖かった。
 列車で諫早に着き、体育館のような所に収容された。報告のため夜中に1人で島原の実家に戻って母に伝えた後、寝たきりになり起きられなかった。次男は半年後に、長男は10年ほど後に亡くなった。原爆のせいだったと思う。下宿先の家族のうち、疎開していた長女は無事だったが、三菱兵器関係の仕事に行っていたおじさんは、どうなったのか分からない。
 被爆後は島原の学校に編入。1年ほど毎朝、顔を洗うと必ず鼻血が出て、洗面器が血でいっぱいになった。原爆は感染するという風評があり、人前で被爆体験を話すことはなかった。

◎私の願い

 争いの背景には宗教や考え方の違いがあり、どんな世の中でも意見の対立はあるが、互いに大きな気持ちで向き合うことはできないものか。上に立つ人には、自分だけでなく人の意見も取り入れ、まとまって平和を築いてほしい。

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