丸田和男さん(90)
被爆当時13歳 旧制瓊浦中1年 爆心地から1.3キロの長崎市銭座町で被爆

私の被爆ノート

爆風 家の下敷きに

2022年12月22日 掲載
丸田和男さん(90) 被爆当時13歳 旧制瓊浦中1年 爆心地から1.3キロの長崎市銭座町で被爆

 1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸したのと同じ日、旧制県立瓊浦中(現・長崎市竹の久保町)に入学した。当時は衣類不足で、300人の同級生ほとんどが新しい制服も持たず、小学生の延長のような格好だったが、共に希望を胸に入学式に臨んだ。
 2年生以上は学徒動員で学校にほとんど顔を見せなかった。残った1年生は授業の合間に、グラウンドの一角で農作業をしたり、火災の延焼を防ぐために建物を取り壊す「建物疎開」の後片付けや、こしき岩(田手原町)で海から来る敵の侵入を防ぐための塹壕(ざんごう)を掘る作業に動員されたりした。空襲警報で授業を中断することもあったが、長崎への空襲は少なく、危機感は正直あまり感じていなかった。
 これを覆したのが7月29日、30日、8月1日の集中的な空襲。8月1日の第5次空襲では、学校のグラウンドに爆弾が落ちた。避難していた学校の防空壕(ごう)の吹き抜けから爆風が駆け抜け、生きた心地がしなかった。6日には広島に特殊爆弾が投下され、相当な被害が出たと聞き、「これからどうなるだろうか」と不安になった。それでも、まさか自分の頭の上に落ちるとは思ってもいなかった。
 9日は、期末テストの最終日。朝から空襲警報が鳴り、足止めをされたが、解除されたので学校に向かった。午前9時から10時ごろまで英語のテストを受け、ほっとした気持ちで学校から1キロほどの銭座町の自宅に帰った。当時は母と二人暮らし。母は家にいなかったが、遠くに行っていないだろうと気にも留めず、暑かったので上半身裸で過ごしていた。
 聞き慣れたB29の爆音が聞こえ、外に出て空を見上げた。その日の空は3分の2ほどが雲に覆われ、隙間から時折、太陽がのぞいていた。機影は見えず、飛行音から、1機か2機が高い空を飛んでいると推測できた。上空を通過するだけだろうと思い、部屋に戻ると、爆撃機が“ゴォー”と急降下する音が聞こえ、爆撃かと思い、身構えた。予想に反して青白い、異様な閃光(せんこう)が走った。また何か来るだろうと動けずにいると、すさまじい爆風に襲われた。木造の家がぺしゃんこに倒れ、梁(はり)や柱の下敷きになった。真っ暗なトンネルの中を砂嵐で体ごと持っていかれるような感覚だった。「自分は死んでいくんだ」と13歳ながらに死を直感した。

=1152に続く=

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