黒瀬克江さん(90)
被爆当時14歳 長崎女子商業学校2年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町で被爆

私の被爆ノート

仏様の前で助け乞う

2022年7月21日 掲載
黒瀬克江さん(90) 被爆当時14歳 長崎女子商業学校2年 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町で被爆

 長崎市稲佐町の自宅で4歳年上の姉と2人で暮らしていた。父は兵隊として五島にいて、母は7歳の時に亡くなっていた。あの日、姉はいつも通り、西彼長与町の紡績工場へ仕事に向かい、私は早朝から警戒警報が出ていたため学校に行かなかった。
 友人が自宅に遊びに来ると言うので、おやつにと思いジャガイモを調理していると、空から飛行機の音が聞こえた。「友軍機かな」と考えていたとき、晴れてとても明るかった外が突然、ピカーとさらに明るくなった。辺りは火柱が立ったかのように真っ赤になり、その後ドカーンと大きな音が鳴った。「母ちゃん助けて」。仏様の前でそう言いながら伏せた。体の左側を玄関の方面に向けていたせいか、爆風で割れた玄関のガラスが左半身に刺さり、数カ所のけがを負った。
 周囲は先ほどと一変、真っ暗になり、私は生き埋めになったのかと感じた。今思うと家が崩れ、ほこりで周囲が見えにくかっただけかもしれない。しばらくすると明かりが見えたので、はだしで外に出た。海軍からここは危ないと言われたため、彼らと一緒に稲佐児童公園へ向かった。
 公園の雑木林の辺りには、逃げてきた人たちが肩を寄せ合い座っていた。市内を見下ろすと、ガスタンクがバンバンと爆発し、まちは火の海。横にいたおじさんたちも「どげんなるとやろうか」と不安そうだった。夜までに、近所の4、5人と出会うことができ、その日は、うち1人の親戚宅に泊まらせてもらうことになった。大波止まで船に乗り、そこから歩いて愛宕町の親戚の家まで行った。
 翌日、救護所の新興善国民学校に行くと重傷者ばかりで、私は「けがの内に入らない」と言われた。その後、稲佐警察署で、私を探していた姉と再会。顔を見るなり「かっちゃん」と私を呼び喜んでいた。
 「また長与まで行こう」と姉がいい、歩いていると、道中、死体がごろごろと重なっていて怖かった。私は、姉と姉の友人に両脇を支えてもらい、上着を頭にかぶって周りを見ないようにしながら進んだ。梁川橋の下には、もんぺと上着を着た人が川にうつぶせで浮いていた。
 バケツを持っていたため、多くのけが人たちから「水ばください」と求められた。入っていないと伝えると、残念そうに落胆し、そこを歩くことは本当につらかった。

◎私の願い

 ロシアには今の戦争をやめてほしい。子どもたちもみんな亡くなっていきかわいそう。私たちが通ってきた道を歩かせたくないし、同じように苦しむ人がいてはならない。孫、子の代まで、二度と戦争を起こしてもらいたくない。

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