宮川雅一さん(87)
被爆当時11歳 勝山国民学校5年 爆心地から2.9キロの長崎市今博多町で被爆

私の被爆ノート

爆風でガラスが脚に

2022年5月12日 掲載
宮川雅一さん(87) 被爆当時11歳 勝山国民学校5年 爆心地から2.9キロの長崎市今博多町で被爆

 実家は長崎市今博多町の電車通り沿いで商店を営んでおり、店と住居はつながっていた。あの日、敷地内の土蔵に荷物を入れる手伝いをしていた時だった。上空で飛行機が急降下するのが見えた。「日本の飛行機じゃろ」。そう思いながら見上げているとピカーッと閃光(せんこう)が走った。
 「様子が違う」。そう思って事務室内に飛び込んだ。とっさに伏せるやいなや、ブワーンと爆風が来た。浦上から金比羅山を回ったのだろうか、南の方から吹き込んだ覚えがある。戸棚が体の上に倒れかかった。幸い頭を打つことはなかったが、下半身は下敷きになった。戸棚のガラスが飛び散り脚に刺さった。
 近くにいた父に助けられ、隣の座敷に行って驚いた。座敷には大きな穴が開き、障子は全て吹き飛び、座布団が天井に引っかかっていた。どこかに爆弾が落ちたのだろうとは思ったが、何が何だか分からなかった。中島川沿いの防空壕(ごう)に避難すると、空は晴れているのに北から黒々とした煙が空を覆い始めた。
 家族は皆無事だった。父は警防団の分団長だったのであちこち消火に回り3日間は帰らなかった。夜には自宅で休んだが、屋根に大きな穴が開いていて、そこから空を舞う火の粉がちらちら見えた。
 戦時中はとにかく食べ物がなかった。腹が減って台所へ向かうと、母が作った芋だんごが爆風で全て飛び散っていた。もったいなくてたまらず、落ちているものを拾って食べた。
 8月15日。ラジオの音質が悪く、玉音放送はよく聞き取れなかった。憲兵隊は「放送は嘘だ」と言いながら町を回っていた。私は日本が負けたと分かり、悲しくて仏壇の前で涙を流した。
 今度は米軍が長崎に上陸するという話を聞いた。「鬼畜米英が来る」。そのことの方が恐ろしく、父は私たちを連れ時津へ逃げた。自転車でリヤカーを引きながらの道中、浦上を通った。人の遺体を見ることはなかったが、馬が死んで半分くらい焼けているのを何度か目にした。近づくと嫌な臭いで分かった。しばらくして「アメちゃんもそう悪いやつじゃない」という話になり、長崎に帰った。
 戦後、東京大に進学。被爆者と言えば変な気持ちを持たれたので、あまり触れたくなかった。同市の助役になってからは世界各国で被爆の実相を伝える展覧会の開催に奔走した。

◎私の願い

 ウクライナ侵攻でロシアが核兵器使用の可能性をちらつかせているが、原爆は絶対悪。戦争犯罪どころではない。場合によっては人類滅亡につながりかねない。絶対に使ってはならないし、どこであっても誰であっても廃棄すべきだ。

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