山本ハルさん(92)
被爆当時15歳 爆心地から3.1キロの長崎市三川町で被爆

私の被爆ノート

目を貫く青い光線

2022年12月8日 掲載
山本ハルさん(92) 被爆当時15歳 爆心地から3.1キロの長崎市三川町で被爆

 京都で生まれ育ち、5年生の時には軍需工場で働いていた。1945年2月、祖母がいる長崎市三川町に両親と引っ越してきた。14歳だった。
 看護婦になりたかったが、父が大反対。「卒業式に行く」とうそをつき、国民学校の同級生2人と看護学校の試験を受けに行った。3人とも合格し、全寮制の学校に入学した。両親はさみしかったのだろう。毎週のように会いに来て、おやつを差し入れてくれた。
 7月末ごろから夜に空襲が続いた。どこかに爆弾が落ちると衝撃で内臓がえぐられるようだった。一緒に入学した3人で「家に帰ろう」と決め、先生に伝えた。「看護婦が逃げるってあるか」と怒鳴られた。3人で8月15日に戻ってくる約束をし、着の身着のまま夜に寮を抜け出した。
 8月9日朝。母と一緒に野菜を売りに行くことにしていたが、直前に断った。母は城山方面に行ったらしい。「なんかおやつこうてきてやる」と言って出かけた。
 畑で作業していると、「カボチャがおいしく炊けたから食べにおいで」と祖母にしつこく呼ばれた。しょうがなく炊事場に行くと、確かにおいしそう。口に入れようとしたその時だった。ドーンッ。真っ青な光線が目を貫いた。とっさに台の下に頭を突っ込んだが、右足の甲に切り傷を負った。隣の家はつぶれた。もし畑にいたままだったらどうなっていたか…。
 3日ほどたち、防空壕(ごう)掘りに召集されていた父が茂木から帰ってきた。母を毎日捜しに出かけたが、見つかることはなかった。
 8月15日、約束通り看護学校に向かった。下大橋周辺で倒れていた人たちに「水を」と足を引っ張られ、怖くて走って逃げた。川には死体が4、5体あった。橋を渡ると街はきれいに片付けられ、学校も更地になっていた。同級生2人の姿はなかった。原爆で亡くなったのだろう。
 その後、大村の海軍病院に看護婦として召集を受けたが、憔悴(しょうすい)しきった父を置いていけず、泣く泣く断念した。
 原爆投下から6年。国鉄で働く同い年の男性と結婚。お互いが被爆者だと知ったのは後のこと。夫の代わりに出勤した同僚が浦上駅で被爆死した。それが苦しかったのだろう。夫は原爆についてほとんど語らないまま72歳で亡くなった。私は90歳近くになり、次女が記憶を掘り起こしてくれた。

◎私の願い

 戦争の苦しみを二度と味わってほしくない。絶対にだめ。枠にはまった生活をしてきた世代なので、今の社会はぜいたくで自由なあまり、自己中心的で命を軽視し過ぎだと感じる出来事が多い。もっと物や命を大切にしてほしい。平和がいい。

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