倉守照美さん(78)
被爆当時1歳 爆心地から5.8キロの長崎市小瀬戸町で被爆

私の被爆ノート

記憶なくても伝える

2022年9月1日 掲載
倉守照美さん(78) 被爆当時1歳 爆心地から5.8キロの長崎市小瀬戸町で被爆

 1歳のころ、長崎市小瀬戸町の防空壕(ごう)の中で被爆した。当時の記憶は全くない。
 父は動物が好きで、いつも犬や猫に囲まれているような優しい人。長崎市飽の浦町の三菱重工業長崎造船所で働き、仕事から帰ると、お酒を楽しそうに飲んでいた。父のあぐらの上が私の指定席。7人きょうだいの末っ子だったこともあり、たくさんかわいがってもらった幼少期の記憶は今も残っている。
 あの日、被爆したという現実。両親がそれを口にすることはなかったため、私も特に気にすることなく過ごした。ただ、小学校に行けばケロイドがある同級生がいて、それがただのやけどではないことは分かる。同じ地域で生まれ育った私も、きっと被爆しているだろう。そう考えるのは自然だった。
 10歳の時、父が肺がんで亡くなった。職場で被爆したが元気に家へ帰ってきた、って私は聞いていたのに。原爆を初めて強く意識した経験となった。一家の大黒柱を突然失い、それからの人生、母は大変な思いをしたはず。でも、愚痴をこぼす姿を見たことは一度もない。
 私自身は被爆者という意識はなかったが、県外男性との見合いが「被爆者」を理由に断られるなど、偏見を感じることはあった。2人の子どもに恵まれたが、産むときも、産んでからも、被爆の影響に対する不安は消えなかった。
 母は、わが子がみじめな思いをせずに生きていけるよう、被爆について黙っていたのではないか。沈黙は愛情。今はそう思っている。
 30歳を過ぎたころ、被爆者健康手帳の存在を知り、きょうだい4人で取得。数年後、40代の姉ががんで亡くなった。悲しみと同時に、湧いてきたのは放射能への恐れ。それでも、母と同じように沈黙を貫いていた。
 転機は66歳の時。高校生の孫に被爆体験を尋ねられた。もう逃げては駄目。そんな風に考え、近所の被爆者にも当時の様子を聞き、自身の記憶がなくても伝えることはできると信じ、語り始めた。2010年、15年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米するなど、活動は国内にとどまらない。
 これだけ平和を訴えてきたのに、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、いまだに核がなくならない。もどかしさは募るが、長崎を最後の被爆地にとの信念は揺るがず、体の動く限り、訴える。記憶のない被爆者として。

◎私の願い

 ロシアのウクライナ侵攻を見ると心が苦しい。こんな情勢だからこそ、私たちの言葉を次世代に伝えていかなければいけないと強く思う。被爆者に残された時間は多くはない。平和のために何が必要か、全員が自分事として考え抜いてほしい。

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