井石昭子さん(80)
被爆当時1歳 爆心地から4キロの長崎市三ツ山町で被爆

私の被爆ノート

運命分けた疎開

2023年11月02日 掲載
井石昭子さん(80) 被爆当時1歳 爆心地から4キロの長崎市三ツ山町で被爆

 1944年、父の結核療養のため、両親と私たち4人きょうだいは大阪から母の古里の長崎市へ引っ越してきた。西洋風の自宅があったのは爆心地に近い橋口町。現在の平和祈念像のすぐそばだった。
 当時の状況は父が生前、語り聞かせてくれたり、母が手記に残したりしている。45年8月8日、水の浦町に住んでいた祖母が突然家にやって来て「親戚を頼って疎開しよう」と言い出し、その日のうちに三ツ山町へ向かった。それが運命の分かれ道となった。
 翌日、疎開先まで襲った閃光(せんこう)とごう音、爆風。市内方面は真っ黒になったかと思うとやがて赤く染まり、灰や燃えかすが降ってきた。母が手に取ると、長崎医科大付属医院(現長崎大学病院、爆心地から0・7キロ)のカルテもあった。夕方、ドロドロになった姿で帰ってきた父は次の日も死んだように眠り続けた。
 父は油木町にあった市立商業学校(現長崎商業高、爆心地から1・1キロ)の英語教諭だった。あの日は、運動場わきで防空壕(ごう)を掘っている最中に原爆に遭い、爆風の衝撃で気を失う。意識を取り戻し目の当たりにしたのは、生徒たちの変わり果てた姿。大やけどを負い、全身の皮膚を垂れ下げたまま水を求める声が生涯耳から離れないと、父は語っていた。三ツ山町に帰る途中の浦上川では至る所で犠牲者が折り重なるようにして息絶え、その光景は地獄絵そのものだったという。
 被爆3日後、着の身着のまま疎開した母は家が気になり、私たち子ども4人を連れて橋口町へ行ったが、自宅は跡形もなかった。近くの井戸端では姉たちとよく遊んだ百合子ちゃん親子が抱き合った格好で黒焦げになっていた。
 戦後は祖母宅に身を寄せた。爆風で壊れた窓や壁を補修し、12人が同居する大所帯。食べることにも苦労し、小学生になった私は、子どもの足で片道2時間かかる畑から芋やカボチャを背負って運んだ。そのころ、県庁坂では戦争で負傷した復員兵らが義手や義足を着けて道端に並び、アコーディオンを奏でて物乞いをしていた。生活が苦しくて恵むお金がなかった私たちきょうだいは、子どもながらに足早に通り過ぎた記憶がある。
 原爆投下前日に疎開し、家族全員が無事だったのは奇跡と言うほかない。今思えば、戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさを後世に伝えるために生かされた気がする。

◎私の願い

 いじめ、子どもの自殺が社会問題になっている。人の痛みが分かる大人になってほしい。相手を思いやる気持ちを大切にすることが、世界平和につながる。被爆者なき時代が近づく。若い世代には私たちの思いを後世に伝えていってほしい。

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