2016年4月14日 長崎新聞掲載
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外が光り 体に衝撃
顔の写真

川浪賢人さん(75)

爆心地から2・8キロの長崎市片淵町1丁目で被爆
=長崎市青山町=

 当時4歳。6人家族で、4人兄弟の三男だった。父は兵隊として対馬に行っていた。8月9日は、片淵町の自宅にいた。当時の記憶はあまり残っていないが、外がピカッと光り、体が衝撃を受けたことを覚えている。家は壊れずに家族も無事だったが、怖かった。

 父方の叔父は、大波止周辺で原爆の熱線を浴び、とっさに海に飛び込んだが、顔が水膨れになり皮がはげたそうだ。変わり果てた叔父が帰宅すると、いとこは「お父さんじゃない」と言って逃げたが、叔父からたたかれたという。

 夕方、長崎は危ないと思い、家族と近所の人と一緒に北高来郡江ノ浦村(現諫早市飯盛町)に向かった。兄たちは両手に荷物を持ち、母は1歳の弟をおんぶしながら私の手をひいた。私は眠りながら歩き、リヤカーにも乗せてもらったらしい。夜中に空の飛行機を地上から照らす光線が見えたが、幼かったのできれいだなと思った。

 長兄が道端にある水道水を飲もうとしたら「水を飲んだら死ぬぞ」と消防団員からこっぴどくたたかれた。途中、大きな空き家があった。爆弾を落とされたのか屋根がなかったので、あおむけに寝ると星がきれいに見えた。江ノ浦村にある近所の人の親戚の家に着いたのは翌朝で、全員疲労困憊(こんぱい)だった。

 その後、父の親戚宅に身を寄せ、さらに母の親戚宅に移った。私は諫早市の小学校に入学したが、長崎は食べ物が少なかったので、今度は母の別の親戚を頼って1年生の2学期から熊本で生活。中学校まで過ごした後、就職した。

 次兄は49歳で突然亡くなり、長兄はその2年後、55歳のころ舌がんで亡くなった。2人の兄は両親よりも早く逝ってしまった。海に飛び込んだ叔父もがんで亡くなったという。少なからず被爆の影響があると思っている。

<私の願い>

 食料不足などの戦争のつらさは体験した本人でないと分からないと思う。自分が体験したことを今の若い人には体験させたくない。放射線は目に見えないので怖さが分かりづらいが、もっと敏感になるべきだ。原子力発電所は全廃してほしい。未来の子どもたちの負の遺産になることは間違いない。

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