1996年12月26日 長崎新聞掲載
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今も痛む全身の傷跡

顔の写真

谷口 稜曄さん(67)

爆心地から約1.8キロの東北郷(現在の住吉町)の路上で被爆
=長崎市大鳥町=
 昭和二十年八月九日。十六歳だった。自転車で郵便配達をしていた。住吉神社近くで飛行機の爆音が聞こえた瞬間、強烈な爆風と爆発音に襲われ、にじのような光が目に映った。

 約四メートルも吹き飛ばされ、地震のような揺れが続く中、両手で目と耳をふさぎ地面にへばりついた。家々は爆風で押しつぶされ、近くで遊んでいた子ども二人は死んでしまっていた。

 数分後、自分の異変に気付いた。左腕の皮が垂れ下がり、背中は衣服も皮も何もなかった。大やけどを負ったのに不思議と痛みも出血もなかった。乗っていた自転車の鉄の部分はアメのように折れ曲がった。

 髪が焼け、顔が異様に膨らんだ死体が転がっていたが何をする気にもならなかった。ただぼう然と歩いた。三菱兵器住吉トンネル工場に避難、女性工員に左腕にぶら下がっている皮膚をはさみで切り取ってもらった。患部に機械油を塗ってもらった。「この場所は攻撃される」と言われ、重傷者でごった返す近くの畑に行った。

 午後、救援列車が到着。乗りたかったが動けなかった。乗り込む前に息絶える人が目立った。夜になると、あちらこちらから火の手が上がり、浦上方面の燃え盛る炎がやみ夜を明るく照らし出していた。

 十一日朝、どこかの警防団に助け出された。道の尾駅で親類に会えた。この日から“うつぶせ”のままの治療生活が始まった。諫早や長与を転々とした。

 九月、長崎医大臨時病院となった新興善国民学校に搬送された。既に背中の焼けた部分が腐って流れ出し、乳児のおしめにためる程だった。十一月からは大村海軍病院へ強制移送。軍人相手の看護婦は治療も手荒く、背中に食い込んだガーゼをー気にはぎ取られたときには、あまりの痛みで悲鳴を上げた。

 毎日「苦しい、殺してくれ」と訴えた。二十二年五月、ようやく手足を動かせるようになり、二十四年三月二十日退院。全身に残る被爆の傷跡は一生消えることなく、いまだに痛む。


<私の願い>
 戦時中、大人は戦争は正当で絶対に負けることはない、天皇陛下のために死ぬことは名誉、と子どもに信じ込ませた。なぜ反対しなかったのか。原爆による傷や障害は一生いえることがないことを知っでほしい。身近な差別が大きくなると国と国との戦争につながることを忘れてはならない。

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