村木 和子
村木 和子(74)
村木和子さん(74)
爆心地から6キロの時津村で被爆
=大村市池田新町=

私の被爆ノート

火葬した父骨残らず

2011年4月7日 掲載
村木 和子
村木 和子(74) 村木和子さん(74)
爆心地から6キロの時津村で被爆
=大村市池田新町=

当時9歳。戦火が激しくなり1945年4月以降、長崎市から時津村(現西彼時津町)野田郷の母の実家に疎開していた。母は教師、父は長崎水上署に勤務する警察官だった。疎開先には母と私、妹と弟で住み、父は長崎市内で一人、下宿していた。

あの日は母が外出しており、7歳下の妹の子守をしながらイモ畑を歩いている時だった。ピカッと光り、ものすごい爆風が押し寄せた。私と妹はこの時、吹き飛ばされたことまでは覚えている。

家に戻ったら屋内は家財道具が散乱し、めちゃくちゃな状態。戻ってきた母と一緒に片付けた。夜は、長崎市の方角の空が真っ赤に染まっていた。縁側に座って大人たちと見詰めたが、本当に怖かった。

近所に住んでいた知り合いの女性が長崎市に行ったまま帰ってこないと騒動になっていた。2~3日して、戸板に載せられて帰ってきたが、結局亡くなってしまった。時津には長崎市方面から逃げてくる人たちが多く、頭髪が抜け落ちた女性もいた。

父は無事だった。原爆が投下されて、どれぐらい後だったかははっきり覚えていないが、間もなくだったと思う。母と一緒に時津から長崎市に歩いていく用事があった。浦上方面から茂里町辺りは一面が焼け野原で驚いた。何もない状態。側溝に牛や馬が死んだまま放置されていて、恐ろしかった。

時津の小学校は避難所になっており、被爆した人たちが身を寄せていた。板張りの床に、血のしみなどがいっぱい残っていた。

母は50年にがんで亡くなった。父が亡くなった際は、荼毘(だび)に付した後、ほとんど骨が残らず、わずかな骨も黄色かった。母の死も、父の骨が残らなかったことも、原爆の影響ではないだろうか。

弟は被爆当時のことを覚えておらず、原爆を記憶しているのは、私の世代が最後かもしれないと思う。

<私の願い>

原爆は一度に多くの人の命を奪った。核兵器を戦争に使うのは論外。外国のテレビ番組で被爆者を笑いものにしていた。啓発が足りないのではないか。東日本大震災の被害で、原爆を思い出した。原発の事故で放射性物質への恐怖も広がっている。原爆がいかに残虐かを国内外で認識してほしい。

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