シベリアに抑留された父が現地で使っていた鍋を見詰める松永さん=平戸市生月町

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戦争の記憶 2024 ナガサキ 松永一成さん(84) ソ連軍侵攻 シベリア抑留の父

2024/05/19 掲載

シベリアに抑留された父が現地で使っていた鍋を見詰める松永さん=平戸市生月町

 「シベリアから帰ってきた父は、飛行機のプロペラの廃材で作ったこの鍋で、煮炊きや水浴びをしていたと話してくれました。家族みんな苦労したとです」
 銀色に鈍く光る不格好な鍋を見詰める松永一成さん。豊かな暮らしを夢見て旧満州(現在の中国北東部)に渡った一家だったが、ソ連軍の侵攻によって過酷な運命に翻弄(ほんろう)された。

引き揚げ者に日常的な差別も

 「広大な平原に農作物が実るこの世の楽園」-。1932年建国の満州国は、当時の日本人にとってあこがれの地だった。41年、30代だった父の定義さんは南部の遼西省(現在の遼寧省)綏中(すいちゅう)に渡り、建設会社に勤めた。当時の満州国は建設ラッシュで収入が良く、数年後、古里の生月島から生後間もない一成さんら家族を呼び寄せた。一成さんは両親と姉に加え、現地で生まれた弟、妹に囲まれ家族6人で豊かに暮らしていた。
 しかし45年8月、ソ連軍の侵攻で生活は一変。定義さんら男性の多くは捕虜にされシベリアへ。ソ連兵による金品や食料の強奪も横行した。親しかった中国人が、ソ連兵のいいなりになり日本人を暴行することも。当時5歳の一成さんは幼心に「人間はこうも簡単に変わってしまうのか」と驚いた。
 ある日、自宅にソ連兵2人と中国人1人がやってきた。兵士らは金目の物を探した後、家族を一室に集めた。乱暴目的に近寄っていた兵士に母が「そんなことをするなら、みんな一緒に殺してください」と大声で叫んだ。怒った兵士が銃口を向け、弾を装塡(そうてん)するレバーを引くと、「カチャン」という乾いた音が響いた。「もう日本には帰れん」と覚悟を決めた姉。一成さんも「自分たち家族は終わりだ」と感じた。ところが、兵士は抵抗する母のけんまくに気おされたのか、何もせずに立ち去っていった。
 父のいない生活は貧しかった。道端のたばこの吸い殻を拾って紙を巻き直して町に売りに行き生計を立てた。そうして数カ月がたち、引き揚げが始まった。トラックや列車を乗り継ぎ、日本への船が出る遼寧省葫蘆(ころ)島まで5日ほど線路沿いを歩いた。港を目指す道中、行き倒れになる人や離れ離れになる家族も多かった。
 乗り組んだ粗末な木造船は、すし詰め状態でトイレもなく劣悪な環境。機関故障で2日間漂流し、2週間ほどかけてようやく博多港に着いた。みんなが飢えていた。「上陸した時に配られた、おにぎりのおいしさが忘れられない」と振り返る。
 46年春、博多港から船で生月島に到着した。待っていたのは、引き揚げ者に対する住民たちの差別だった。食糧難から畑の作物がなくなるのは日常的だったが、そのたびに「一成が盗んだ」と言われ、つらい日々が続いた。
 生月で暮らして1年がたったころ、シベリアに抑留されていた父から「あす戻ってくる」と電報が届き、家族は皆驚き、喜んだ。一成さんは姉と一緒に平戸口駅まで迎えに行った。ひげぼうぼうで痩せこけ、粗末な鍋を背負った父の姿に、姉は「この人は違う」と言い張り、父が一成さんの名前を呼ぶまで認めようとしなかった。
 生月に戻った父は開墾や伐採に明け暮れるシベリアでの日々を、鍋一つの生活用品で耐え抜いたと話してくれた。父は94年3月、87歳でこの世を去ったが、一成さんは平和の大切さを忘れないように、父の遺(のこ)した鍋を今も大事に使っている。
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 一成さんは2017年、旧満州での体験をつづった小冊子「戦後七一年、満州引揚げ」(A5判、14ページ)を平戸市教委を通じ市内の中高計12校に寄贈している。「戦争は仕方がなかったと言う大人もいるが、そうでは決してない。子どもたちに戦争の悲惨さを分かってもらいたい」と強く訴える。