山口 榮子
山口 榮子(85)
山口榮子さん(85)
爆心地から3・2キロの築町で被爆
=佐世保市指方町=

私の被爆ノート

弟の骨割り「ごめんね」

2011年3月31日 掲載
山口 榮子
山口 榮子(85) 山口榮子さん(85)
爆心地から3・2キロの築町で被爆
=佐世保市指方町=

長崎市築町の貯金局の事務所で帳面をめくって仕事をしていると突然、辺りが明るくなり、爆風で窓ガラスが割れた。事務所は大騒ぎになり、机の下に隠れたが、高い所へ逃げなければと思い、同僚の年下の女性と上小島の高台へ向かった。しばらく何が起きたのか分からず、持ってきた弁当を食べながら、遠くで燃え上がる県庁をぼうぜんと見つめていた。

駒場町(現松山町)の自宅が気になったので、同じ方向に住んでいたこの女性と一緒に向かった。長崎駅を過ぎると地面が焼けて熱かったので、目に留まった防火水槽の水をかぶって進んだ。周囲はがれきの山と炎。下大橋周辺の浦上川にはたくさんの死体があり、皮がはげ筋肉がむきだしの馬は足をピンと硬直させたまま死んでいた。路面電車の線路はあめのようにぐにゃりと曲がり、骨組みだけになった電車内には黒焦げの死体が10体ほどあった。途中で女性と別れたが、その後どうなったかは知らない。

実家はすべて焼けていた。台所と横の部屋に1体ずつ骨があり、母と祖母だと分かった。あまりの光景に言葉を失った。

当時19歳。その日の朝、なぜか「行くな」と泣きついた7歳の弟と病気の17歳の弟がいたが、2人とも死亡した。上の弟の頭蓋骨を骨つぼに入れるために割ったが、その後3日間、弟が夢に出てきた。「骨を割ってごめんね」と思った。

午後6時ごろ、油木の防空壕(ごう)に行くと、叔父らしき人がいたので「おじさーん」と叫んだら、「おーい」と返ってきて、うれしかった。ただ、壕も地獄だった。脇腹の傷口から腸が出てくるのを手で押さえている人、腕の皮がはがれ爪の付け根から垂れ下がっている黒焦げの人-。

壕にはたくさんの死体もあり、材木を組んだ小屋で寝泊まりした。そばで死体が焼かれていたが、雨が降ると、骨に含まれるリンが反応し、火の玉のように青い炎がついたり消えたりしていた。

<私の願い>

当時のことはつらくて思い出したくないが、後世に伝えなければと思い、話すことにした。家族全員と罪もない人々の命を奪った原爆、戦争は本当に嫌だ。戦争を二度と起こさないためには、外国と仲良くしなければならない。そして、隣近所の人と仲良くすることがその第一歩になるのではないか。

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