小川 政喜
小川 政喜(84)
小川 政喜さん(84)
爆心地から3.2キロの長崎市飽の浦町で被爆
=西海市大瀬戸町
松島内郷=

私の被爆ノート

誰かが身代わりに…

2010年4月1日 掲載
小川 政喜
小川 政喜(84) 小川 政喜さん(84)
爆心地から3.2キロの長崎市飽の浦町で被爆
=西海市大瀬戸町
松島内郷=

当時、20歳。三菱長崎造船所組立工場(現長崎市飽の浦町)で船舶機械の製作を担当。私は、浦上工場に異動するよう指示を受けたが、9月に入隊を控えていたので、代わりを出してもらうよう願い出ていた。

工場内で作業をしていると、ガラス張りの天井に突然、黄色い閃光(せんこう)が「ピカッ」と走った。「天井クレーンがスパークしたのか」と思った瞬間、「ドドーン」。ごう音と、爆風で思わずその場に伏せた。粉じんが舞い、落下物の音や、叫び声が聞こえるだけで何も見えなかった。見上げるとクレーンがあり、その下に伏せていたため、落下物を避けることができ、幸いけがはなかった。

「トンネルに避難しろ」と誰かが叫び、汽車道のトンネルに駆け込んだ。傷の痛みにうめき声を上げる負傷者、女子報国隊の泣き叫ぶ声が聞こえ、中は騒然。広島に「新型爆弾」が落とされたことは聞いていたが、その時は何が起きたか見当も付かなかった。

しばらくして係員から「けががない者は幸町工場に救援に向かってほしい」との指示を受け、30人ほどで工場に向かった。家々は爆風で吹き飛び、あたりは火の海。人々は裸同然で皮膚は痛々しくめくれていた。海岸で泳いでいたのか、小学生ぐらいの男の子2人が、顔だけ黒く焼けむしろの上に寝かされていた。

幸町工場では、がれきの下からうめき声だけは聞こえるが、なかなか思うように救助がはかどらない。ようやく助け出し近くの防空壕(ごう)に運び込むと、入り口から奥まで負傷者であふれていた。徹夜で救助や消火作業に当たり10日、解散命令を受けた。

稲佐にあった下宿の家主は無事だったものの、建物は倒壊。親せきに「いつ空襲でやられるかわからない」と勧められ大瀬戸町松島の実家に帰ることになった。たどり着いたのは11日。「無事でよかった」。涙を流しながら喜んだ母の姿に胸が熱くなった。

9日はちょうど、数十人が浦上工場に異動し、全員亡くなったことを聞いた。私の代わりに爆死したのは誰だったのだろう。私は一生、自分の身代わりに亡くなった彼の冥福を祈り続けようと思う。
<私の願い>
当時、私は兵隊に行きたくて仕方なかった。死の恐怖はなく、そういう風潮でもあった。しかし、振り返ってみると「ばかな考えだった」と思う。一瞬で多くの命を奪う核兵器を使う戦争は絶対に起こしてはいけないし、若い人には、自分の命を大切にしてもらいたいと切に願う。

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