本村チヨ子
本村チヨ子(71)
本村チヨ子さん(71)
爆心地から4.5キロの西彼杵郡福田村小江郷(当時)で被爆
=長崎市小江町=

私の被爆ノート

祖母のおかげで無傷

2010年3月25日 掲載
本村チヨ子
本村チヨ子(71) 本村チヨ子さん(71)
爆心地から4.5キロの西彼杵郡福田村小江郷(当時)で被爆
=長崎市小江町=

当時6歳で、福田国民学校(現長崎市立福田小)の1年生。父は出征中で、福田村小江郷の父の実家で、祖母や叔母らと6人暮らしだった。

8月9日午前11時ごろ。夏休み期間中で、私は家の日当たりのいい縁側で1人で遊んでいた。台所では祖母が昼食の準備をしていた。

ジージーと鳴いていたセミが、急に静かになった。「ん?」と思ったそのときだった。強い閃光(せんこう)が走り「バチッ」とすさまじい音。一瞬で家の雨戸は吹き飛び、ガラスも砕け散った。反射的に頭を押さえてうずくまると、私をかばおうとした祖母が、台所から縁側に来て、私の体の上に覆いかぶさった。

爆風がやみ起き上がって祖母を見ると、背中にはガラスが突き刺さり、白い肌着に鮮血がにじんでいた。それでも祖母は私を抱え、庭にある防空壕(ごう)の中に駆け込んだ。祖母のおかげで私にけがはなかった。

しばらくして農作業をしていた祖父や叔母が防空壕に戻ると、叔母は「黒か雨が降りよる」とつぶやいた。私が防空壕から出て外を見ようとすると、祖母に強い口調で「見るな」と言われ、壕でじっとしていた。

数日がたっても、家の近くの海岸では、遺体が焼かれる日が続いた。海の風に乗って漂ってきたにおいは忘れられない。

数カ月がたち、背中にガラスの破片が残り、祖母はあおむけに眠れなくなり、傷にこう薬を塗るのが私の仕事になった。薬を紙に塗り広げ、祖母の背中に張り付けた。長さ5センチほどの生々しい傷口が数カ所残っていた。祖母は私の前で「傷が痛い」とは一度も言わず、薬を塗ると「お前に塗ってもらうと一番気持ちがいい」と喜んでくれた。

冬を越した3月下旬、祖母はこの世を去った。一度だけ親類から「かかさんは、お前をかばったせいでけがをした」と言われた。自分が生きていられるのは祖母の犠牲があったからだと思う。針仕事などで白い布に血が赤くにじむと、今でも祖母の傷と当時の情景を思い出す。
<私の願い>
近親者4人が白血病の犠牲になった。子や孫への悪影響がないか不安になり、出産は浅はかだったと思うときもある。核兵器には怒りを超えてむなしさを感じている。核のない世界を残したい。

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