長峰ヨシヱ
長峰ヨシヱ(84)
長峰ヨシヱさん(84)
爆心地から1.2キロの茂里町で被爆
=長崎市本河内1丁目=

私の被爆ノート

多くの人に助けられ

2010年4月8日 掲載
長峰ヨシヱ
長峰ヨシヱ(84) 長峰ヨシヱさん(84)
爆心地から1.2キロの茂里町で被爆
=長崎市本河内1丁目=

当時私は19歳で、茂里町の兵器工場で図面を写す仕事をしていた。空襲警報が解除され、防空壕(ごう)から急いで工場に帰った時、時計は11時を指していた。机に座り作業を始めようとした時、全身が稲妻のような光に襲われた。

その後辺りが真っ暗になり、私は逃げようとしてもがいていた。霧が晴れるように明るくなると、周囲にあったのはがれきの山。私の左腕からは血が噴き出ていた。

体がしびれ、声も出ずに立ちすくんでいたが、男性から工場の門まで連れ出してもらった。血が出ていた左腕は、外に立っていた老人から革のベルトで止血してもらったが、締められすぎて痛かった。

家に帰ろうとしていたら、トラックに乗せられて大学病院の方に連れていかれた。途中で車が進めなくなり降ろされてしまったので、仕方なく歩いて病院まで向かうことにした。途中、母子や老婦人から助けを求められたが、どうすることもできなかった。病院前の坂に着くと、安心して座り込み眠ってしまった。

周りには炎が迫ってきており、その熱で目が覚めた。「上にあがれ」との声に、必死で坂を上った。坂の上で横になっていると、看護師が医師を呼んできた。医師はすぐに帰ってしまったが、しばらくすると学生らしき人がやって来て、腕に巻かれたベルトの代わりにシャツを破って止血してくれた。

夜に目が覚めた時、辺りは一面火の海だった。遠くから女の子の「お母さん」という金切り声や、「どこか。どこにおっとか」という男性の叫び声が聞こえてきた。この声は今でも忘れることができない。

翌日、血も止まって楽になってから、茂里町の工場に戻った。工場の男性に付き添われて自宅に帰る途中、リヤカーを引いた男性に乗せてもらったり、おにぎりをもらったりした。自宅近くでは近所の人たちが走って迎えに来てくれた。本当に多くの人に助けられたと思う。
<私の願い>
原爆に遭った時に見たあの光景は、まさに地獄だった。この世であれ以上悲惨なことはないと思う。戦争は兵隊だけでなく、すべての人が苦労する。食べ物も着物も履物もなかったあのような時代は、もう二度と経験したくない。若い世代の人たちにも経験してほしくないと思う。

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