泉 芳夫
泉 芳夫(85)
泉芳夫さん(85)
長田国民学校で救護し被爆
=諫早市長田町=

私の被爆ノート

「地獄絵図」の惨状広がる

2010年1月28日 掲載
泉 芳夫
泉 芳夫(85) 泉芳夫さん(85)
長田国民学校で救護し被爆
=諫早市長田町=

 当時21歳。久留米(福岡県)の軍隊に所属していたが、帰休命令が出たため、自宅のある諫早市長田町に戻り、警防団に入っていた。
 あの日は近くの山に松やにを採りに出掛けていた。「ドン」-。11時2分、聞いたことのない大きな爆発音が山に響いた。「何事か」と、辺りを見回したが、木が生い茂り何も見えなかった。
 昼すぎに作業を終え、山を下りながら、長崎の方向を見ると、上空が真っ赤に染まっていた。「どんな爆弾が落ちたのだろうか」と思ったが、当時は至るところで空襲があり、特に気に留めることもなく家に戻った。
 2、3日後、警防団から「負傷者の救護に当たってほしい」と要請を受け、長田国民学校に駆けつけた。やけどで全身の皮膚がただれた人、片足や片手のない人、背中の肉がえぐられて骨が見えている人-。校舎の中は、長崎から列車で運ばれてきたけが人であふれ、まさに「地獄絵図」の惨状が広がっていた。
 学校には医者も駆けつけていたが、消毒液や包帯などの医療用品がほとんどなく、満足な治療はできなかった。ただただ、けが人を寝かし、やけどのあとや傷口にガーゼを当てる。それだけだった。
 「痛い、痛い」「助けて」「水をくれ、水を」-。悲鳴は昼夜を問わず、校舎にひびいた。当時は水は飲ませない方がいいと教えられていたが、「水を飲ませても、飲ませなくても、長くは生きられない。最期に飲ませてあげた方が良いだろう」と自分に言い聞かせ、水を飲ませた。
 終戦までの数日間、救護に当たった。悲鳴を上げ、痛みにのたうち回り、次々と息を引き取っていく姿を目の当たりにし、本当につらかった。ラジオで終戦を聞いた時は「こんな思いは二度としたくない。やっと悲惨な状態が終わった」と安堵(あんど)した。あの時の光景は、決して忘れることはできない。
<私の願い>
 戦争は多くの人が血を流し、悲しむだけであり、二度としてはいけない。長崎を最後の被爆地にするためにも、われわれが体験した苦しみや悲しみを、後世に語り継ぎ、平和への思いを発信していくことが使命だろう。オバマ米大統領が言う「核のない世界」が一刻も早く実現することを強く望む。

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