深堀 鈴雄
深堀 鈴雄(87)
深堀 鈴雄さん(87)
爆心地から3.4キロの千馬町で被爆
=長崎市橋口町=

私の被爆ノート

両親と姉 みんな灰に

2010年2月4日 掲載
深堀 鈴雄
深堀 鈴雄(87) 深堀 鈴雄さん(87)
爆心地から3.4キロの千馬町で被爆
=長崎市橋口町=

海星中を卒業後、三菱長崎兵器製作所大橋工場に入り、魚雷の設計をしていた。20歳で徴兵され満州へ出征したが、体調を崩し、実戦を経験することなく日本に送還。再び工場に戻った。一緒に出征した仲間の多くは南方戦線で戦死-。そんなうわさを聞いたのは戦争が終わってからだった。

当時23歳。長崎市橋口町に両親と3人暮らし。8月9日の前夜は当直勤務だったが、夜中に抜け出し家で寝ていた。朝早く「また行ってくるけん」と両親に告げて家を出た。まさかそれが最後の別れになるなんて…。その時は思いもしなかった。

原爆投下時は友人と2人で大橋電停から路面電車に乗り、市役所に向かっていた。千馬町(現在の出島町)まで来た時、辺りがピカッと光った。ゴォーッと衝撃が走り、驚く乗客。電車は動かなくなった。

長崎駅周辺は火災が発生していた。燃え盛る炎を避けながら自宅を目指し、路面電車の線路沿いを歩いた。下の川電停近くでは電車が止まり、乗客は焼け死んでいた。街はすっかり焼け焦げ、あちこちに死体が転がっていた。「水ば飲ませて…」。苦しむ声に何もしてやれなかった。あの惨状は今も頭に残っている。

やっとたどり着いた自宅前で立ち尽くした。家は焼け崩れ、瓦の破片があまりに熱く踏み入れない。両親はどこか-。近くの防空壕(ごう)にいた人たちに安否を尋ねたが誰も知らない。結局、その日は会えず、近くの畑で一夜を明かした。

翌日、がれきと化した自宅で変わり果てた姿の両親を見つけた。結婚し近所に住んでいた姉もいた。みんな灰になり、骨だけが残っていた。

その後、親せきの家に身を寄せながら自宅の片付けをした。「くよくよしたって同じ」。そう自分に言い聞かせ、温かく接してくれる周囲に対し気丈に振る舞った。だがひと月ほどたったある日、目から涙がこぼれた。
<私の願い>
人種や思想、宗教などさまざまな違いが原因で人は対立し、争うことがある。しかし、武力は何も解決しないし、絶対にしてはならない。互いの違いを認め、尊重し合うことが大切だと思う。経済的な格差があったとしても、困ったときには助け合う。そんな相互扶助の精神を持つべきではないか。

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