小島 梅夫
小島 梅夫(82)
小島 梅夫さん(82)
爆心地から2.3キロの住吉町で被爆
=長崎市音無町=

私の被爆ノート

暗い雰囲気漂う列車内

2010年1月21日 掲載
小島 梅夫
小島 梅夫(82) 小島 梅夫さん(82)
爆心地から2.3キロの住吉町で被爆
=長崎市音無町=

「水をくれ」と負傷者のうめき声があちこちから聞こえる列車内。すし詰め状態で、隣の男性は立ったまま息絶え、首が私の肩にもたれかかってきた。原爆投下の夜、勤務先の三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場(住吉町)近くから乗った救援の列車の中は、言いようのない暗い雰囲気が漂っていた。私もあまりのショックでただぼうぜんと立ったままだった。

工場では、魚雷の部品作りをしていた。当時18歳で周りの工員と比べれば若い方だったが、腕の立つ先輩たちが徴兵されたため、指導員を任されていた。

原爆投下直後のことは、記憶がない。いつものように三菱長崎兵器製作所大橋工場から工員向けの昼の弁当が届いた。「もう昼ごろか」と思い、トンネル入り口横のトイレに入った直後。爆音も閃光(せんこう)も覚えていない。がれきからはい出ると、爆風が来て、目が覚めた時は3メートルぐらい離れた壕(ごう)にできた水たまりの中。右腕にやけどを負い、時間がたつごとに黒く腫れていった。工員もトンネルの掘削工事をしていた朝鮮人も、みんなどこかにけがを負っていた。ほかの負傷者と同じようにトンネル内に入り、横たわった。

夕方になって外に出ると、建物は壊れたり、焼け落ちたりで一軒も残っていない。原爆などとは知るよしもなく、「えらく命中率が高い焼夷(しょうい)弾だな」という感覚しかなかった。自宅は館内町で姉夫婦と暮らしていたが、帰れそうにない。工場にいた海軍工作兵が「長崎は全滅だ。ここでは治療できない。次の列車に乗りなさい」と言ってくれた。夜11時ごろ。近くに止まった列車に乗った。

8月10日早朝、川棚の駅に着き、近くの体育館で医師に治療してもらった。終戦の日の直前に、姉の婿に迎えに来てもらい、長崎市内の自宅に戻ったが、高熱でうなされ続けた。

いったん故郷の五島に帰り、福岡県や長崎市内で、復員船の船員や底引き網漁の漁師として働いた。「原爆を受けた者は、3年も生きられない」と聞いたこともある。生きることへの不安を抱えながらの生活。だが、仕事に追われるうちに原爆のことを思い出すことはなくなっていった。
<私の願い>
退職して原爆のことを思い出すようになった。3月、トンネル工場跡が一部見学できるようになると聞いた。大切な遺構。長崎のようなことが再び起こらぬよう、特に若い人たちはここで何があったのかを知り、戦争と核兵器の恐ろしさを感じてほしい。

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