北野 重孝
北野 重孝(74)
北野 重孝さん(74)
爆心地から2.0キロの西北郷(現・柳谷町)で被爆
=長崎市若竹町=

私の被爆ノート

目の前が真っ黄色に

2009年9月17日 掲載
北野 重孝
北野 重孝(74) 北野 重孝さん(74)
爆心地から2.0キロの西北郷(現・柳谷町)で被爆
=長崎市若竹町=

家で1歳の弟の子守をしていた。昼食の準備をしていた姉の所に行こうと弟を背負って、炊事場に入った瞬間、「ピカッ」と目の前が真っ黄色になり、その中に無数の紫の斑点が広がった。当時10歳で西浦上国民学校の5年生。あの日は登校日で午後から学校に行くはずだった。

強烈な光と同時に姉が「伏せっ」と叫んだので、とっさに親指を耳の穴に入れ残りの指で目を覆い地面に伏せ、その上に姉がかぶさった。「ドン」という家が崩れるような音-。記憶がなくなった。

「シゲ、大丈夫」。姉に体を揺すられ気が付いた。炊事場の壁が倒れてきていたが、運良くすき間に入り込み、3人とも傷ひとつなかった。天井や壁は崩れ、たんすはひっくり返り、家は傾いていた。「姉ちゃん、家に爆弾が落ちたね」-。そう感じるぐらいめちゃくちゃだった。

外に出ると、周囲の家はゴウゴウと燃えていた。近くの畑に行くと近所の人が避難しており、その中に家の畑で農作業をしていた母と妹もいた。生い茂る木の近くにいた妹は無傷だったが、母は顔と胸、足にやけどを負い、皮がはがれていた。

敵襲がまた来るかもしれないと、しばらく畑にいたが、夕方になり一度家に戻ることにした。家の片付けをある程度して、近くの防空壕(ごう)に行ったが、母と姉と弟が入るといっぱいになったので、妹と別の壕に行き、そこで過ごした。

翌日になると、母はやけどの痛みを訴えるようになり、寝たきりで動くことができなくなってしまった。一週間ぐらいたったころ、香焼の捕虜収容所で警備をしていた父がようやく帰ってきたので、家に戻ることにした。

家に戻ってからも母の容体はなかなか良くならず、足からはうじがわき、立ち上がろうとすると血が「ザー」と流れた。それでも父や姉の懸命な看病のおかげで、冬が近づくころ、ようやく歩けるようになった。
<私の願い>
非核三原則は堅持すべきだと思う。そもそも人間同士で殺し合うこと自体、理解できない。各国は核兵器の開発や製造をはじめ、戦争のためにお金をかけるよりも、アフリカなどで苦しんでいる子どもたちの食料や医療支援にお金を使うべきだ。世界から戦争がなくなることを願う。

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