石橋 敬一
石橋 敬一(80)
石橋 敬一さん(80)
爆心地から3.2キロの飽の浦町1丁目で被爆
=長崎市福田本町=

私の被爆ノート

金属片 爆風で背中に

2009年9月10日 掲載
石橋 敬一
石橋 敬一(80) 石橋 敬一さん(80)
爆心地から3.2キロの飽の浦町1丁目で被爆
=長崎市福田本町=

私の背中には、金属の破片が埋まっている。どのようにして入ったかは定かではないが、原爆の爆風でコンクリートの塀にたたきつけられたあの時だと思う。64年前のことが、記憶だけでなく、傷としてもいまだに体に刻み込まれている。

三菱工業青年学校の2年生だった。あの日も長崎市飽の浦の機銃製造工場で実習を受けていた。朝から警戒警報が発令され、工場の近くにある防空壕(ごう)を出たり入ったりしながら作業を進めていた。

何かの用事で工場の入り口に立っていた私に、先輩から「石橋、中に入りなさい」と言われた時だった。ピカッと光る稲光を見た次の瞬間には、爆風で工場の端から端まで飛ばされた。距離にしておよそ15メートルだろうか。それほどの強い風で、私の体はコンクリートの塀にたたきつけられた。気は失わなかったが、足にはガラスの破片が刺さっていた。不思議と痛みは感じなかった。外を見ると、爆風で砂などが舞い上がり、遠くは何も見えなかった。

その後、工場の人たちと防空壕に入った。午前11時40分ごろ、指揮官の指示で壕から出た時、対岸では煙が上がっていた。特に浦上の方は、何も見えなかった。県庁が燃えているのを見た時、一緒に様子を見ていた仲間は、自分の家がどうなっているか不安になったようだった。

松山町あたりの変わり果てた様子を見たのは落下から、数日がたっていた。町は一面焼け野原。死体は、木々で燃やされていた。川では、水を求めた人が折り重なって死んでいた。死臭がきつく、工場の先輩からにおいを消すために香水のようなものを渡されたりもした。

生きている人でも、やけどで皮膚がはがれていたり、真っ黒になった人ばかり。そんな人たちが声にならないか細い声で「水を水を」と言いながらヨロヨロ歩いていた。当時、何とも言えない気持ちになったが、今でもこの光景を思い出すと、涙が出てくる。
<私の願い>
原爆は本当に怖く、あの惨状を思い出すのはつらい。あんなに苦しい思いをするのは自分たちだけで十分。オバマ米大統領のプラハでの演説に大賛成で、本当に核のない世界になれば、と思う。孫らが生きていく社会が平和であることを願っている。

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