西村 瑤
西村 瑤(80)
西村 瑤さん(80)
爆心地から1.2キロの茂里町で被爆
=長崎市上西山町=

私の被爆ノート

地面をはい、うなる人

2009年10月1日 掲載
西村 瑤
西村 瑤(80) 西村 瑤さん(80)
爆心地から1.2キロの茂里町で被爆
=長崎市上西山町=

当時15歳。長崎市上西山町に母と姉、弟2人と5人暮らし。父は4、5年前から名古屋に出張していた。生活は貧しく、満足するほどの食事もできなかった。配給だけでは足りず、母は知人の農家に着物を譲り、代わりにサツマイモやカボチャをもらっていた。誰も文句は言わなかった。「欲しがりません勝つまでは」。その言葉通りの時代を生きていた。

県立長崎高等女学校の4年生だった私は、学徒動員で三菱長崎兵器製作所茂里町工場に勤務。魚雷の推進機をやすりで磨く仕事をしていたが、戦況の悪化で材料が不足。「これじゃ日本は負ける」。ある時思わずつぶやいたら近くにいた男性から激しくののしられた。

8月9日は普段通り作業していた。突然、ピカッとすごい光。窓の外が真っ黄色になり、反射的に机の下に潜り込んだ。爆風が吹き、周囲は煙で真っ暗になった。

しばらくして立ち上がると工場内は機械などが散乱し、天井は半壊。私は左くるぶしをけがしていた。外に出て目の前の光景にぞっとした。全身が真っ赤になった死体、地面をはいながらうなる人。外で作業していた人たちだった。もう生き地獄だった。

同級生と2人で銭座町の聖徳寺のがけ下にあった防空壕(ごう)に避難した。そこにもう一人の同級生がいた。動けない様子だったので、2人で抱えて帰ることにした。長崎駅方面は火災で進めず、金比羅山を越え、着いたのは夕方だった。

母と弟2人は松森神社境内にあった防空壕にいた。動員先の工場で働いていた姉も帰ってきた。家族や親せきに犠牲者が出なかったのは幸いだった。しかし、私は原因不明の体調不良に陥った。倦怠(けんたい)感と食欲減退が続き、嘔吐(おうと)も繰り返した。けが一つしていなかった友人が突然亡くなった時は自分も死を覚悟した。

戦後も甲状腺や肝臓などの病気を繰り返し、長年苦しんだ。それでも、生きているだけでありがたいと思う。
<私の願い>
子どもたちには、恐ろしい戦争と原爆に遭わせたくない。今の日本の平和はありがたいことだ。しかし、世界に目を向けると、各地で争いは絶えない。飢餓や貧困、病気に苦しむ人がたくさんいる。日本だけでなく、すべての国の人々が安心して暮らせる平和な世の中になってほしい。

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