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「平和への誓い」に臨む被爆者、工藤武子さん 家族を生涯苦しめた原爆 紙芝居で実相伝える  

2023/06/07 掲載

 8月9日に開かれる長崎市の平和祈念式典で「平和への誓い」を読む被爆者、工藤武子さん(85)=熊本市=は80歳を目前に、紙芝居を使った語り部活動を始めた。生涯にわたり家族の体をむしばんだ原爆への怒りと、核兵器のない未来への希望に突き動かされている。「世界の子どもたちが二度と同じ苦しみに遭うのは許せない」。そう語る工藤さんの半生をたどる。
 家族と長崎に移り住んだのは、原爆投下の1、2年前だった。父親は福岡で書店を営んでいたが、戦時統制のあおりで閉店。長崎の造船学校長だった祖父のつてで、父も造船所に勤めることになった。
 1945年8月9日。片淵町2丁目(当時)の自宅には当時7歳の工藤さんと母親、姉、弟2人の5人がいた。昼食のカボチャ雑炊を食べようとした時だ。ピカッ-。雷を集めたような閃光(せんこう)が差し、工藤さんと姉が庭の防空壕(ごう)へ飛び込んだ瞬間、ごう音と爆風が押し寄せた。爆心地から3キロ。家中のガラスは割れ、畳はめくれ上がった。家族の誰にも、目立ったけがはないようだった。
 造船所から駆け付けた父は、家族の無事を確認すると、すぐに親族が住む爆心地付近へ。数日かけて「城山のおじさんとおばさん」の遺体を捜し出し、火葬した。「電車の中には黒焦げの人がたくさんいた」。爆心地の惨状を苦しげに語る父の姿を、工藤さんは今も覚えている。
 翌年に末の妹も生まれたが、戦後、造船所の仕事は激減。父は5人の子を食べさせるために一家で平戸に移住し、慣れない農業で必死に生計を立てた。だが被爆後14年近くがたち、姉と工藤さんが大学や短大に通っていた頃、父に肝臓がんが見つかった。不調を隠して働き続けた父の病状は、既に手が付けられなかった。「原爆の影響なのか」。家族は不安に覆われた。
 病床で意識が遠のく父はつぶやいた。「神様、私の家族をお守りください」。原爆に生活も健康も奪われ、55歳の若さで逝った父の最期の言葉。だが願いはむなしく、残された家族も核被害の現実に直面する。母、きょうだい、そして工藤さんに、次々とがんが見つかった。

 工藤さんは1960年春、長崎市内の短大を卒業して地元銀行に就職した。その後、長崎の大学で造船を学ぶ男性と出会い結婚。夫の地元熊本に移り住み、2人の子に恵まれた。
 慌ただしくも幸せな日々。だが被爆から数十年がたち、工藤さんと同じ場所で被爆した母やきょうだいが相次いでがんを患った。母は長い闘病の末、2001年に死去。その後も胎内被爆の妹は乳がん、一緒に防空壕(ごう)に逃げ込んだ姉は肺がんで命を落とした。下の弟は50代から胃や舌、大腸などの「重複がん」と闘い続けて、亡くなった。
 「原爆の放射線は何十年も、ずーっと体を痛め続ける。これを非人道的と言わず、何と言えばいいの」。被爆の後遺症への不安は、「確信」に変わった。
 一方で、熊本に暮らす工藤さんが核廃絶運動に関わる機会は長らくなかった。転機は被爆60年を過ぎた頃。被爆者が船で世界一周をしながら体験を証言するピースボートの事業を新聞で知り、参加を申し込んだ。08年秋から4カ月間の船旅。太平洋の核実験被害者や、同乗したカナダ在住の被爆者サーロー節子さんらと交流し、「ヒバクシャや戦争被害者は世界にいる。もっと自分も活動したい」と刺激を受けた。
 帰国した09年、熊本県原爆被害者団体協議会(被団協)に入り、理事に就任。会報発送や署名活動などに携わった。7年後、さらなる転機が訪れる。
 16年秋、紙芝居で被爆体験を伝える活動に参加した工藤さん。「私も紙芝居で残し、伝えたい」と強く思った。題材として頭にあったのは被団協の元会長、深堀弘泰さん(昨年2月、96歳で死去)の体験。国鉄職員として長与駅から長崎市内に向かう「救援列車第1号」に乗り込み、爆心地の惨禍を目撃した一人だ。工藤さんが深堀さんに手紙を送ると、すぐに返事があった。「余命があるとはいえません。急ぎましょう」
 制作は深堀さんや熊本の被爆2世、市民ボランティアらが協力。翌17年には紙芝居「原爆被害のおはなし」が完成し、初演にこぎ着けた。傷ついた体で列車に取りすがる被爆者、母親や弟妹の被爆死-。深堀さんの壮絶な体験が描かれ、1回に30分を要する重い内容。それでも回を重ねるごとに小学校などから声がかかり、熊本で20回以上講演してきた。
 工藤さんは3年前、初期の肺がんの摘出手術を受けた。講演は新型コロナ禍の影響で一時激減。それでも一人でも多くの人に、紙芝居を届けたいと語る工藤さん。真剣な表情で講演を見つめる子どもたちの瞳に、希望を感じるからだ。「原爆は過去の歴史ではなく、今につながっている。78年たっても苦しむ人がいる。世界の誰も同じ体験をしないように、まずは知ってほしい。そして核兵器をなくすために、自分はどうすべきか考えてほしい」。そう願っている。