「被爆者の皆さんと一緒に、走ったり、歩いたり」。横山さんはこれまでも、これからも核なき世界を目指していく=長崎市岡町、長崎原爆被災者協議会

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あの丘の約束 横山照子とヒバクシャたち・7完 『岐路』 生きてきた証しを残す

2022/08/08 掲載

「被爆者の皆さんと一緒に、走ったり、歩いたり」。横山さんはこれまでも、これからも核なき世界を目指していく=長崎市岡町、長崎原爆被災者協議会

 終戦の数日後、当時4歳だった横山照子(81)が目にしたのは、原爆で何もかも破壊され、しんと静まり返った「死の淵」のような街。疎開先から、爆心地周辺を通って長崎市の自宅を目指す道中だった。共に歩く祖母のもんぺを引き、数歩進むたびに「ここどこ?」と聞き続けた。
 ウクライナで起きている惨状は、幼き日の照子の記憶と二重写しになる。「またヒバクシャを生み、子どもの、若者の人生を押しつぶそうとするの」。悲惨な最期を遂げた妹。核兵器廃絶の実現を待たず亡くなった仲間たち。彼らを思い、激しい怒りと無力感にさいなまれている。
 核廃絶や反戦を訴え、核使用の危機にくさびを打ち込んできた被爆者。だが一方で、高齢化と組織の衰退が避けようのない現実としてある。
 6月、東京。照子は全国の団体を束ねる日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の総会に出席した。会場で、今春解散した北陸の被爆者団体の元会長(81)は訴えた。「被爆者団体はどこも限界です」
 被爆地長崎も例外ではない。3月には、被爆者5団体の一つ「県被爆者手帳友愛会」が会員の高齢化などを理由に解散。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)でも、照子が中心となって続けてきた被爆者相談事業は、かつて10人ほどいた相談員の多くが鬼籍に入り、岐路に立たされている。
 平均年齢84歳を超えた被爆者を、被爆者が支え続けるのは限界-。照子は昨年、相談事業の継承に向けて新たに「相談所長」のポストを設けた。県生活協同組合連合会の元役員で、被爆者運動に携わってきた中川原芳紀(73)が就任。ただ、中川原は自身の年齢も踏まえ「あと4、5年が踏ん張りどころ。その後の活動をつないでくれる被爆2、3世など若い人の育成が欠かせない」と強調する。
 照子と中川原は、1人暮らしの被爆者宅への訪問活動に力を入れようとしている。高齢の低所得者や生活保護受給者、生きづらさを抱える仲間に、より丁寧に向き合うためだ。しかし新型コロナ禍が足止めを強いる。被災協内に昨年設けた被爆者の交流スペースも活用できないまま。時間ばかりが過ぎ、焦りが募る。
 照子はそれでも、高齢化が進む今こそ、すべきことがあると考える。それは被爆者たちが「生きてきた証しを残す手伝い」だ。照子は言う。
 「生きた過程をひっくるめて原爆被害。苦しみも何もかも振り返り、原爆にあらがう気持ちを持って、最期を迎えてほしい。『原爆が生み出したもの』に向き合い、残そうとする被爆者と一緒になって走ったり、歩いたりするのが、私たちの役割。今ほど、被爆者の言葉が求められる時はないじゃないですか」
 手記に書いてもいい。誰かに語ってもいい。残された「証し」の一つ一つが、核の危機に揺らぐ世界の道しるべとなり、後世に届ける平和の願いとなる-。照子はそう信じる。
 あの日、爆心地そばの丘で在りし日の仲間たちと誓い合った「核なき世界」の約束。世界は混沌(こんとん)とし、いつ果たせるかも分からない。だが照子は信じる。亡きヒバクシャたちの思いを背負い、生きている限り。=文中敬称略=

  =おわり=