「長崎原爆青年乙女の会」の記念碑を見詰め、在りし日の仲間に思いをはせる横山さん=長崎市平野町

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あの丘の約束 横山照子とヒバクシャたち・1 『源流』 核廃絶、見届けられぬまま

2022/08/01 掲載

「長崎原爆青年乙女の会」の記念碑を見詰め、在りし日の仲間に思いをはせる横山さん=長崎市平野町

 長崎市の爆心地そばの小高い丘に、その碑はある。少年少女時代に原爆の惨禍を生き延びた「長崎原爆青年乙女の会」のメンバーが、自ら岩を運び、核兵器廃絶の誓いを刻み込んだ。「平和の願いを後世へ」-。四半世紀余り前のことだ。
 先月下旬。被爆者の横山照子(81)はその丘で、共に碑を築いた仲間の姿を思い浮かべた。渡辺千恵子、山口仙二、谷口稜曄(すみてる)、山田拓民…。「みんなで造ったのに、みんな亡くなった」。被爆者の高齢化が極まる今、核廃絶の実現は程遠いばかりか、核の使用をちらつかせて隣国に攻め入る大国さえある。
 「戦争は国を亡ぼす」
 「核兵器は地球をなくす」
 照子は怒りを込め、碑文を読み上げる。77年前の原爆で傷つき、その後の差別や貧困に苦しみながらも、廃絶を信じて闘った被爆者たちの「遺言」だ。

 青年乙女の会は、被爆11年目の1956年5月に発足した。メンバーは10~20代前後の若い男女。翌月の長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)結成にも携わるなど、被爆者運動の「源流」となった。
 当時は、米国のビキニ水爆実験による第五福竜丸事件(54年)で原水爆禁止運動が沸き起こり、口をつぐんでいた被爆者が体験を語り始めた時期。ケロイドが残る山口仙二や下半身不随の渡辺千恵子ら「青年乙女」たちが、国の援護もなく放置された窮状と、核被害のむごさを訴えた。
 照子は72年に入会。若手の一人として先輩たちを追いかけてきた。
 石碑を建てたのは、結成40年となる96年。台座には未来の子どもたちに宛てた手紙などを入れたタイムカプセルを収め、「地球上から核兵器が廃絶された時に開ける」と決めた。
 「生きているうちに廃絶できると、信じた人たちなんです」。照子は誇らしげに、でも少し寂しそうに語る。現実は残酷だった。世界の核弾頭は現在約1万3千発。100人ほどいた会員の大半が核廃絶を見届けられずにこの世を去った。あの時のカプセルは今も埋まったままだ。
 照子は今春、碑の前で初めての集会を企画した。会員の他に平和運動に携わる若い世代も招き、「原爆青年乙女」たちの意志と活動を引き継いでほしいとの思いからだ。無事に終え、ほっとした様子の照子。少し意外なことを言った。
 「私にはね、会に入る資格はないんですよ。おこがましいというか…」
 4歳で入市被爆し、目に見える傷ややけどがない照子。重い障害をさらけ出して活動する他の会員たちの姿に圧倒され、常に裏方に徹してきた。
 ただ3歳下の妹には、その「資格」があると思っていた。被爆後に声を失い、人生の大半を闘病に費やした「りっちゃん」。彼女の存在は、多くの被爆者に寄り添い、相談支援を続けてきた照子の原点となる。=文中敬称略=


 72年から長崎被災協の被爆者相談員を務める横山照子さん。ウクライナ危機で核の脅威が高まる一方、6月の核兵器禁止条約締約国会議で世界が核廃絶への新たな一歩を踏み出した激動の2022年に、50年の節目を迎えた。彼女の記憶に刻まれたヒバクシャたちの「叫び」を、この時代に届けたい。