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戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 6(完) 山本タエさん(95) 当時25歳 主婦
生活奪った焼夷弾

2015/06/30 掲載

山本タエさん(95) 当時25歳 主婦
生活奪った焼夷弾

東の空が赤く染まった。
6月28日から日付が変わろうとしたころ。数日前から発熱してぐずる長男を、相生町の自宅の縁側であやしていたときだった。爆発音は聞こえなかったが「演習じゃない。本物だ」とすぐに悟った。慌てて夫を起こしたとき、空襲警報が鳴り始めた。
「俺は家を守る」という夫を残し、隣にある実家へ逃げ込み、床下に身を潜めた。だが、しばらくして自宅の庭に焼夷(しょうい)弾が落下。不安になり自宅へ戻ると、血まみれの夫の姿があった。
夫は、焼夷弾に布団をかぶせて消火活動をしていたが失敗。爆発でかぶっていた鉄かぶとが吹き飛び、右顔面と右腕を骨折していた。怖くて足がすくみ、動けなくなった。
父親や近所の人たちと合流し、自宅前の溝に逃げ込んだ。長男に火の粉が降り掛からないように、溝に流れている水に漬からないようにと気を張った。
溝をたどりながら、近くの河原へ出た。夫はぐったりとし、長男は泣く力さえなくなっていた。
夜が明けてから、警防団の男性に頼み、夫を医者に連れて行ってもらった。川で長男のおむつを洗おうとすると、真っ黒な便をしていた。死ぬ前の兆しだと聞いていたので「もう駄目だ」と思った。ふと、視界に入った自宅は、すでに焼け落ちていた。
父親たちと比良町の別宅に向かった。通り道の建物はすべて焼け、どこを歩いているのかさえ、自信が持てなかった。荷物を背負ったまま倒れていた人、木炭のように黒焦げになった人…。逃げるように別宅へ向かった。
幸い別宅は無事。午後になって夫が運ばれた病院に行った。長男も診察してもらい、薬をもらってとりあえず安心した。
7月2日。福岡で暮らす義父が佐世保に来た。見舞いではなく、夫の召集令状を届けにきたのだった。
街を焼け野原に変え、多くの命を、生活を奪った佐世保大空襲。これだけの被害を受けてもなお、戦争は続いた。