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戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 5 佐世保海軍工廠
藤澤静江さん(85) 当時15歳、学徒動員生

2015/06/27 掲載

佐世保海軍工廠
藤澤静江さん(85) 当時15歳、学徒動員生

学徒動員で、1944年から佐世保海軍工廠(こうしょう)で働いていた。鉄板を加工して大小さまざまな筒を製造する工場で、電気溶接を担当。これらの筒は魚雷や機雷の部品の一つ。東彼川棚町に出撃拠点があった海軍の特攻艇「震洋(しんよう)」の燃料タンクの製造にも携わった。同年代の男性の命が懸かっていると思うと、自然と仕事に力が入った。
6月28日も作業を終え、佐世保市戸尾町の自宅へ戻った。床に就き、約2時間が過ぎたころ、外の騒がしさに目が覚めた。「燃えてるぞ、燃えてるぞ」。雨戸を開けると、工廠で働く若手工員用の下宿から、叫び声が聞こえた。空襲だと思い、急いで着替えた。
ヒューっと、遠くから甲高い音が聞こえた。ちょうど自宅の外に出た瞬間。裏庭に焼夷(しょうい)弾が突き刺さった。慌てて両親と一緒に砂袋でたたいたり、砂を掛けて消火した。
既に工員用の下宿は炎に包まれていた。「燃えるものがないところに逃げないと」。高台にある墓地を目指し、真っ暗な石段の細道を夢中で駆け上った。
やっと到着し、市街地を見渡すと、市役所方面から火の手が上がっていた。空には何本もの探照灯の光の帯が交差。時折、米軍爆撃機B29が照らされて見えた。
「何やっているんだ。ああ、もう駄目だ」。高射砲の迎撃は、まったく当たる気配がない。B29がこちらに飛んでくるのではないかという恐怖で、近くの防空壕(ごう)へ逃げ込み、朝まで過ごした。
明け方、家に戻ると町内一帯が焼けていた。だが、自宅は奇跡的に無事。ほっとしたのか、体のあちこちがじわりと痛んだ。いつのまにかやけどを負っていて、血がにじんでいた。
その日も、焼けた町を通って出勤。工場は無事だった。「全員が死ぬまで戦争は続くんだ」。そう思いながら、目の前の仕事に打ち込んだ。
8月15日は休みで自宅にいた。翌16日も工場へ行ったが、仕事はなかった。上司が機密書類を焼いていたのを見て、敗戦を実感した。