戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 4

戦友たちの慰霊のため毎年5月下旬に沖縄を訪れる庭月野さん=那覇市、海上自衛隊那覇航空基地

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戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 4 同期は次々に戦死して
19歳「次は自分」と覚悟

2015/06/18 掲載

戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 4

戦友たちの慰霊のため毎年5月下旬に沖縄を訪れる庭月野さん=那覇市、海上自衛隊那覇航空基地

同期は次々に戦死して
19歳「次は自分」と覚悟

神風特別攻撃隊龍虎隊(赤とんぼ特攻隊)の第1次(1945年5月)第2次(同年6月)それぞれ8機は、天候不良でほとんどが与那国島に不時着して大破。攻撃は中止された。

「次に出撃する第3次の指揮官は沖縄に11カ月勤務していた自分だろう」。元龍虎隊員の庭月野(にわつきの)英樹(89)=宮崎市=は、当時そう覚悟した。19歳だった。

複葉で布張りの九三式中間練習機(通称・赤とんぼ)に250キロの爆弾を積んで、夜間に洋上を飛ばなくてはならない。離陸だけでも至難の業だった。「どうすれば編隊を率いて敵機からのがれ、成功できるのか」。眠れない夜が続いた。

鹿児島県出身の庭月野は、戦時中諫早市小野島町にあった「長崎地方航空機乗員養成所」の卒業生だ。そこで約10カ月間、練習機「赤とんぼ」で操縦技術をたたき込まれた。44年1月に卒業後、姫路海軍航空隊で海軍予備練習生として九七式艦上攻撃機の訓練を受けた。同年4月、修業と同時に充員召集され、沖縄海軍航空隊に配属。昼夜、翼の下に爆弾を抱き、哨戒と輸送船団の護衛をした。

45年3月下旬、米軍が沖縄に侵攻する1週間前に、石垣島派遣隊に転勤になる。沖縄に残った飛行隊員はほとんどが戦死した。5月に台湾・虎尾基地の龍虎隊に転勤し、「赤とんぼ」での特攻訓練を終えて出撃待機中だった。同期は相次いで戦死した。「いよいよ次は自分の番だ」と覚悟を決めた。

ところが、6月に特攻隊彩雲隊(千葉県・木更津基地)に転勤になる。8月15日に、偵察機「彩雲」に800キロの爆弾を積んで出撃予定だったが、終戦になり特攻隊は解散した。命令に粛々と従った結果、自分は生き残り、多くの戦友が逝った。

戦後は、自衛隊の教官など、30年間パイロット生活を送った。毎年5月27日から3日間、慰霊のため沖縄を訪れる。遺族らの自衛隊機での慰霊飛行も、庭月野の戦死した同期への強い思いから、体験搭乗として実現した。95年から続いている(一時中断)。

「亡くなった戦友の顔は今も18、19歳のまま。今の日本の繁栄の影に、恋さえ知らずに逝った多くの若者たちの犠牲があることを忘れてはいけない。二度と戦争がないよう願っている」

=文中敬称略=