戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 5

第3次龍虎隊慰霊祭に参列した笹井良子さん(中央)ら=沖縄県宮古島市

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戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 5 特攻の真実 胸に秘め 戦友らを思い慰霊碑建立

2015/06/19 掲載

戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 5

第3次龍虎隊慰霊祭に参列した笹井良子さん(中央)ら=沖縄県宮古島市

特攻の真実 胸に秘め 戦友らを思い慰霊碑建立

5月29日、沖縄県・宮古島にある第3次龍虎隊(赤とんぼ特攻隊)の慰霊碑前で、有志らによって慰霊祭が営まれた。

参列した笹井良子(59)=滋賀県甲賀市=は、慰霊碑の建立者、笹井敬三の長女。元龍虎隊員だった敬三は、2004年に79歳で亡くなった。戦後50年の1995年、70歳のときに私費で碑を建立し、散華した戦友らを供養した。

「沖縄に碑を建てたことは聞いていたが、どこにあるかは最近まで知らなかった。第3次の方が宮古島から飛び立たれたので、ここに建てたかったのでしょう。戦友を思って、毎年お参りしていたようです」(良子)

戦果を挙げた第3次龍虎隊に続き、第4次龍虎隊が編成された。敬三はその一人だった。8月13日に台湾の虎尾基地で、第4次のメンバーと、2日後15日の出撃命令が告げられた。

生前、敬三が記した手記「悲しき羽音」(「海鷲の雄叫び 予科練最前線の記録(2)」=1981年、海原会=所収)には、第3次龍虎隊員の出撃前後の様子や、九三式中間練習機(赤とんぼ)での特攻訓練、第4次出撃命令から当日までの心情が赤裸々につづられている。第3次のメンバーの中には、敬三が刎頸(ふんけい)の友と呼ぶ、戦友らがいた。

「果たして一億日本人の中で、特攻の真の心情を理解するものが幾人いるだろうか? 特攻隊員でなければほんとうの気持ちを理解することはできない。いくら言葉をつくしても説明できぬものなら、体験者の心の中で温めつづけて霊を鎮めるより他に手段がないのだと思う」。敬三は手記にそうつづった。

出撃の当日終戦となり、第4次はなかった。しかし、第3次の戦友らが味わったであろう出撃命令を受けてから当日までの48時間の堪え難い思いを共有した。戦後は、滋賀県に帰郷し、農業を継いだ。兄は戦死し遺骨はなかった。死者たちの無念を常に胸に持ち続けて生きたのではないか。

「戦争ほど平気で人を不平等に取り扱かうものはない。また残忍の限りをつくして平然としているものはない。無言のうちに真実は語る、しかしいくら思ってみても仕方がない。自らを捧げ他を大ならしめんとす、これが特攻の信条であろう」(手記より)

=文中敬称略=