核大国に挑んで
 =NPT会議ニューヨーク報告= 7(完)

修学旅行の中学生と握手を交わす下平作江さん=25日、長崎市城山町、城山小

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核大国に挑んで =NPT会議ニューヨーク報告= 7(完) 執 念
核廃絶 兆しなりとも

2005/05/27 掲載

核大国に挑んで
 =NPT会議ニューヨーク報告= 7(完)

修学旅行の中学生と握手を交わす下平作江さん=25日、長崎市城山町、城山小

執 念
核廃絶 兆しなりとも

今月二日に始まった核拡散防止条約(NPT)再検討会議は「入り口」の議題採択をめぐり、長い立ち往生を続けた。「断念」「絶望的」「決裂」―。終盤の新聞記事にはそんな活字が連日並んだ。

「セントラルパークも閑散としてましたね」。若い参加者の多くを感激させた開幕前日の反戦・反核集会。しかし、一九八二年の第二回国連軍縮特別総会を知る長崎被災協副会長の谷口稜曄さん(76)の目には寂しく、頼りなげに映った。

米国では、背中に重いやけどを負った少年の写真パネルを示しながら「この現実から目をそらさないでほしい」と行く先々で訴えた。原爆の熱線に赤く焼かれた六十年前の自身の姿だ。

最後の渡米―の覚悟があった。「鉄を溶かす溶鉱炉の倍の温度の熱がどんなものか、一人でも多くの人に理解してほしい」。名刺の上半分に同じ写真を刷り込んだ。被爆の実相を伝える悲痛な決意の表れだった。

だが、五年前の会議で差し込んだ「明確な約束」の光が輝きを増すことはなかった。過大な期待はなかったが、落胆がないと言えばうそになる。「世界中が同じ認識に立つまで頑張り続けるしかない」。谷口さんは自分に言い聞かせるように話す。「核兵器廃絶のせめて兆しなりとも見届けるまでは」

「こんな苦しみは、私たちで最後にしてください。もう私たちの命もわずかです。あなたたちの力で、長崎を最後の被爆地にしてください」

二十五日朝。長崎原爆遺族会長の下平作江さん(70)は、爆心地に近い長崎市の城山小学校を訪れた大阪の中学生たちに語り掛けていた。前夜は別の学校の求めに応じ、自らハンドルを握って佐賀県内の宿泊先まで赴いた。家に帰り着いたのは深夜だった。

米国から戻った長崎は、春の修学旅行シーズンがピークを迎えていた。体調を整える間もなく、使命感に背中を押されて体験を語り続ける。「何も言えずに死んでいった人、死にたくなかった人の声を聞いてほしい。そして、どんなにつらくても生きてほしい」―と。

「嘉代子桜」の下で記念撮影の輪ができた。いらっしゃいよ―。呼び掛けに女生徒が首を振る。「泣き顔で写りたくないから、ですって」。下平さんが少し笑う。思いは確実に伝わっている。