講話の原稿を前に、病床で友愛会の活動について語る中島さん=7月25日、長崎市内の病院

ピースサイト関連企画

「岐路の被爆者団体~高齢化の現場から~」【上】 会長不在 「後任が決まらない」 友愛会の活動 入院中も

2018/08/08 掲載

講話の原稿を前に、病床で友愛会の活動について語る中島さん=7月25日、長崎市内の病院

会長不在 「後任が決まらない」 友愛会の活動 入院中も

 7月25日、長崎市内の病院。県被爆者手帳友愛会の会長代行、中島正徳(88)がベッドから起き上がり、静かに口を開いた。
 「後任が決まらない」
 会長退任から2カ月。状況に変わりはない。「一時は解散も考えていた。誰も引き受けてくれないから」
 中島が会長の辞表を提出したのは5月28日にあった友愛会の役員総会。「健康上無理な状況になった」と理由を述べ、後任の決定を求めた。体調不良で約半年間の入院生活を終えた2週間後の出来事だ。候補者として挙がったのは2人。いずれも代表に適任と見込んでいたが、固辞された。体力低下や家族の健康事情…。断る理由はそれぞれにある。「誰もしないなら解散だぞ」との声も届かず、当面は会長代行として仕事を引き受けざるを得なかった。
 その後の7月17日。中島は友愛会の事務所で1人作業をしていた。「あれこれ理由を付けて『俺はせん、俺はせん』と言う」。不満や怒りで声は荒くなる。2008年の会長就任ごろに約2500世帯あった会員は現在、半数以下の約1200世帯に減少。高齢化で幹部が次々と亡くなる中で、活動の負担が肩にのし掛かった。
 被爆者5団体の協議から会報の執筆まで、仕事が追いつかず事務所で座布団を並べて寝泊まりする日もあった。今年の入院中は「外出許可」をもらい各種会合に参加。代理出席を引き受けてくれる人がいなかったからだ。「会長が決まらなければ解散もある。俺が抜けたら活動できない」。翌18日から腹部の手術のため再入院した。
   ◆   ◆   
 7月22日、長崎市内であった被爆者と枝野幸男・立憲民主党代表の面談。出席予定だった被爆者5団体の中で唯一、友愛会は欠席した。「中島さんは大丈夫か」「体調はどうだろう」。代表者たちは集い心配していた。8月9日に5団体の要望書を首相へ手渡す「大役」は今年、友愛会が務めることになっている。
 「5団体の代表同士で食事をしても年齢の話が多い。高齢化やリーダーの欠落はどの団体も直面する課題」。県平和運動センター被爆連議長の川野浩一(78)も同様に不安を抱える一人だ。組織が弱体化する中でも5団体は共同声明や核兵器廃絶を求める国際署名などで連携する機会は多い。「互いの顔が見えなかった時代は過ぎ、紆余(うよ)曲折を経て成果を上げてきた。これまで以上に助け合い5団体で連携を強める必要がある」
   ◆   ◆   
 1週間の予定だった中島の入院生活は7月25日も続いていた。「8月9日まで仕事が山積み。こうしちゃおられんのだが」。ベッドに座る中島は原爆関連行事に向け講話の原稿を書いていた。「自分の組織だけを考えればポッと辞める。5団体でずっとやってきたから辞めれば迷惑が掛かる」
 長崎原爆の日まで代行として仕事を全うする。以降は体調も考えて、事務所に通う回数を減らしながら後任の選定を急がなければならない。「次を育てなかった俺も良くなかったのかな」   (文中敬称略)
 会員減少、高齢化、組織衰退-。被爆者組織の在り方が変化している。岐路の葛藤に焦点を当てる。