被爆者の代表の一人として集会で核廃絶を訴える本田会長=7月7日、長崎市の平和公園

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「岐路の被爆者団体~高齢化の現場から~」【中】 組織衰退 乖離する理想と現実 当事者だけでは「無理」

2018/08/08 掲載

被爆者の代表の一人として集会で核廃絶を訴える本田会長=7月7日、長崎市の平和公園

組織衰退 乖離する理想と現実 当事者だけでは「無理」

 「一番若いんだから一人になっても続けろ」
 長崎の被爆者運動をリードした故山口仙二に口酸っぱく言われた言葉が胸に残る。
 だが、市民平和運動の原点とされる「長崎原爆青年乙女の会」代表の小峰秀孝(77)は今、複雑な心境を抱いている。「運動も社会貢献もできていない。形骸化しているけど辞めるに辞められない」
 1955年、山口は「長崎原爆青年の会」を発足。翌56年に「長崎原爆乙女の会」と統合して長崎原爆青年乙女の会を新設し、被爆者が集い、悩みを語り合う場をつくった。「過酷な経験をした被爆者には寄り添い、救済し合う場が必要だった」。4歳で被爆した小峰も右足の大きなケロイドがもとでいじめや差別を経験。会が果たした役割の大きさを理解している。
 2016年、周囲から代表に推されたのも「一番若くて元気だから」が理由だった。他に誰もいないから仕方ない、と引き受けた。今春、2年ぶりの定期総会に集まった会員は10人程度。「あれがしたい、これがしたいと提案する人はいなかった」。高齢化の深刻さを痛感している。
 本当は余生を自由に生きたい。でも、後任がいないまま歴史ある会をつぶしてはいけない。だが「一人で頑張っても誰もついてこない」。理想と現実は乖離(かいり)する。「会は自然消滅に向かっている」
   ◆    ◆   
 7月7日、平和公園。
 「ここから見える全てが一瞬で黒焦げになった。そんな恐ろしい思いは二度としたくない」
 長崎原爆遺族会会長の本田魂(74)は、核兵器禁止条約採択1周年を記念する集会で訴えた。目の前には80人を超える市民。被爆者の代表として「苦手」とするスピーチも何とかこなしている。会長に就任した1年余り前までは自分でも想像しなかった姿だ。
 「一からの出直し」だった。本田は就任を巡る苦闘を、そう振り返る。
 16年11月、正林克記前会長が死去。後任が決まらず遺族会顧問の下平作江(83)や長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の谷口稜曄(すみてる)会長(当時)から就任を依頼された。工事会社の会長として忙しい上、自身が記憶の曖昧な若年被爆者であるため運動に深く関わった経験もない。「私には務まらない」と固辞した。2千人いた会員は当時30人ほどに激減。会を立て直す自信はなかった。
 「被災協の部会として残せないか」。相談した長崎被災協の役員らには下部組織として遺族会を編入する案を示したが、存続を強く希望された。渋々承諾したが、条件を付けた。原則的に原爆で親族を失った被爆者に限定している会員を、被爆2世や3世、賛同者にまで拡大することだ。副会長には3世が就いた。
 17年4月の会長就任から組織的に会員を増やし現在は280人。「本気で組織を残すと考えるなら被爆者だけでは無理。自分はあくまでつなぎ役。今が次世代に引き継ぐ準備の段階なのだろう」(文中敬称略)