髙橋清子さん(91)
被爆当時14歳 長崎市立高等女学校3年 爆心地から4.4キロの大浦元町(当時)で被爆

私の被爆ノート

亡き友に「すまない」

2021年9月30日 掲載
髙橋清子さん(91) 被爆当時14歳 長崎市立高等女学校3年 爆心地から4.4キロの大浦元町(当時)で被爆

 戦争、そして原爆は大切な友人たちの夢と命を奪った。今で言えば中学3年生。人生で一番良い時期だったはずなのに。もう二度と会えないと思うと、本当に悔やまれる。
 当時は父と兄、姉2人の5人暮らしだった。母は早くに病気で亡くなり、成人した長姉が私たちの面倒を見てくれていた。
 私は長崎市立高等女学校(桜馬場町)に通っていたが、3年生になると学徒動員で勉強どころではなくなっていた。1学年4学級のうち、3学級は爆心地近くの三菱重工長崎造船所幸町工場に動員された。一方、私がいた学級だけは、旋盤などを運び込んだ女学校の屋内体育場での作業を割り当てられた。私は完成した部品などの寸法を測り、規定通りに造られているか確かめる係。腕には腕章を着け、頭には日の丸の鉢巻きを巻いて、りりしく頑張っていた。
 それでも慣れない工場作業で疲れがたまっていたのだろう。8月9日は体調を崩して作業を休み、通称「合戦場」と呼ばれる高台近くにあった次姉の友人宅へ、姉2人と共に避難していた。
 家の中で姉たちと話をしている時だった。ものすごい爆風と音が襲ってきて、全員で畳に伏せた。ふすまや家具も倒れ、初めは「近くに焼夷(しょうい)弾が落ちた」と思った。
 しばらくして中心市街地の様子を見ようと、さらに高台へ登った。空一面に黒っぽい雲が広がり、長崎駅や浦上方面の空は、火災のため赤く染まっていた。「(工場の)お友達はどうしているかな」。不安が募ったが、安否を確かめるすべはなかった。やがて私たちのいる高台の方にも、風に乗った火の粉や燃えかすが飛んできた。
 終戦後しばらくして、人づてに学校が再開されたことを聞いた。登校して初めて、幸町工場で多くの同級生が亡くなったことを知った。仲が良い友人だけで5、6人以上。今も名前を覚えている。新大工に住んでいた人、竹の久保の人。歌が上手でいつも先生に褒められ、音楽の道を志していた女の子。みんな亡くなった。
 それぞれに夢があっただろうに、原爆が落とされたばかりに奪われた。真面目に工場に行った人は亡くなったり、けがをしたりしたのに、体調を崩して休んだ私は無事。「本当にすまないね」。そんな気持ちでいっぱいだった。(三代直矢)

◎私の願い

 高校生平和大使など若い世代が頑張っているのが心の支え。平和な時代を継続してほしい。アフガニスタンなど紛争地帯の現状をニュースで見ると、原爆が投下された時のことを思い出す。平和はありがたい。絶対に戦争をしてはいけない。

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