山下昤子さん(92)
被爆当時16歳 爆心地から3.3キロの本下町(当時)で被爆

私の被爆ノート

弟をミカン箱で火葬

2021年10月14日 掲載
山下昤子さん(92) 被爆当時16歳 爆心地から3.3キロの本下町(当時)で被爆

 当時は長崎女子商業学校に在学し、報国隊員として本下町(現・築町)の公設市場2階にあった貯金支局に勤務していた。父はべっ甲職人で、夫婦川町の実家に両親と8人きょうだいで暮らしていた。
 8月9日朝、仕事中に飛行機の爆音が何度かした後、ドーンと大きな音が響いた。急いで原簿の棚の間に隠れた。前にいた女性の背中に血が付いていたので「あんた、けがしとる」と話していたら、私の額から垂れた血だった。飛んできたガラスで右眉の上が縦に10センチほど切れ、今でもその傷跡にはしこりが残る。
 その後すぐに、何人かで救護所になっている新興善国民学校に向かった。耳が垂れ下がっている人や皮膚が剥がれている人が木陰に集まっていた。けが人が次から次にやって来て、順番に手当てしてもらった。薬はなく赤チンキと包帯で処置してもらった。
 帰宅すると家族は夫婦川町の防空壕(ごう)に避難していた。通院で長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)にいた二つ上の姉の消息が不明だったが、金比羅山の山中にある農家に運ばれていることが夜に分かり、父が迎えに行った。姉は病院の分厚いガラスで太ももなど13カ所ほど切り、身がむき出しになっていた。
 翌日から毎日、家族4人で姉を戸板に乗せて町内の病院まで通院した。麻酔も消毒液もなくヨードチンキを塗るため、「ギャー」と叫ぶ姉を4人で押さえ付けた。傷口は縫ってもまた開いてしまい、その繰り返しだった。
 14日、付き添いで病院にいると、四つ下の妹が4歳の弟の勝次をおんぶして来た。「腹の痛か」と泣くため連れてきたという。医師には自家中毒と言われた。湿った防空壕に長く滞在し、敵機にびくびくしていたストレスからだろう。両親は家で姉と弟の看病をし、私たちきょうだいは防空壕で過ごした。
 弟は体が引きつってしまい、両親が口にさじをくわえさせて介抱したが、とうとう一晩で亡くなった。「戦争に勝って次の時代を背負う」と名付けられたが、終戦の日に亡くなってしまった。近所のおじさんがミカン箱で棺おけを作ってくれ、伊良林国民学校の校庭で火葬した。四つ下の妹と2人でぼーっと見届けた。脳と腸が最後まで焼けなかったのが忘れられない。
 戦後、家族はほとんどがんに侵され、娘も闘病している。原爆の影響だと考えてしまう。(北里友佳)

◎私の願い

 戦争がないのが一番いい。私たちの時代は食べ物もぜいたく品も何もなく、学校で勉強もできずにばからしい稽古をした。辛抱して頑張ってきたから今がある。先代の苦労を少しでも考えてもらい、これからも戦争がないよう頑張ってほしい。

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