浅野睦子さん(76)
被爆当時8カ月 爆心地から3.6キロの長崎市八坂町(当時)で被爆

私の被爆ノート

父の体中にガラス片

2021年9月16日 掲載
浅野睦子さん(76) 被爆当時8カ月 爆心地から3.6キロの長崎市八坂町(当時)で被爆

 当時の私はよちよち歩きができるようになったばかりの生後8カ月。原爆が投下された時の状況については、すでに他界した父と母から、私が結婚するまで何度も話を聞かされていました。私にとっての被爆の記憶は両親の被爆体験になります。
 当時の自宅は八坂神社(長崎市鍛冶屋町)のすぐ近く。父は浦上にあった水産会社に勤めており、あの日も夜明け前の薄暗い中をいつものように出掛けていきました。浦上川の河口辺りにあった長崎魚市場で魚の競りに立ち合った後、会社で帳簿の整理が終わって仲間と一服していた時でした。大きな音とともに会社の建物が爆風で押しつぶされるように崩壊し、みんなその下敷きになってしまったそうです。
 頭と上半身ががれきに埋もれて息絶えた者、折れ曲がった壁板のくぎが下半身に刺さってうめき声を上げる者など、惨状が広がっていました。父もガラスの破片が体中に刺さって血みどろになりながらも、仲間の救助活動に当たりました。自宅に戻ったのは原爆投下から3日目。浦上川の河口には数え切れないほどの死体が浮いていて、その異臭に吐き気をもよおしながら帰ってきたそうです。
 自宅で被爆した母は私を連れて近くの防空壕(ごう)に避難しており、外傷はありませんでした。投下直後の町内は静まり返り、「音のない世界」みたいだったそうです。新型爆弾がさく裂したとのうわさはすぐに広まりました。幸いにも自宅は火災の被害や損傷もなく、住むには支障はありませんでした。ですが、母の気掛かりは帰って来ない父の安否だったそうです。
 原爆投下の翌日、大村市で海運業を営んでいた母の実家から叔父が訪ねてきました。早朝から時津港まで船を出し、自転車で長崎市内を目指したそうです。がれきや死体を避けるため、自転車からたびたび降りることになり、私たちの自宅に着いたのは昼すぎでした。「姉さん、むつこ、大丈夫ね」と、何度も私たちの身を案じてくれたそうです。その後、父が帰宅するまで一緒にいてくれました。
 4日目の朝、市内の惨状を考え、父だけ残して母の実家に避難することになりました。その途中、黒焦げになった人間の死体や、はちきれんばかりに腹部が膨らんで横たわって死んでいる馬のそばを通るたびに、叔父は「見るなよ」と、私の目を覆ってくれたそうです。

◎私の願い

 父は亡くなるまで体に刺さったガラス片を完全に取り出すことはできず、母も原爆による心の傷が癒えることはありませんでした。私もいわれのない中傷に不安な気持ちが続いたことがあります。戦争は起こさず、核兵器は廃絶してほしい。

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